「習い事」という言葉に違和感を覚えることがある。特にスポーツなどを習い事とすることで、社会デザインの弊害になっているかもしれない。

2021年12月8日 文・高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)


スポーツ社会学の上田滋夢さん(追手門学院大学教授) との対談記事(東洋経済オンライン)

ドイツのスポーツクラブ(※)を参照しながら、日本のスポーツについて意見交換をしていると、スポーツが「習い事」として捉えられていることに気がつく。たとえばスポーツ社会学の上田滋夢さん(追手門学院大学教授)との対談でもそういう指摘があった。

スポーツクラブ
非営利の組織で歴史も古く、その数は約9万ある。スポーツを核にしたコミュニティになっている。

「習い事」が日本国内でどういう社会的文脈で発展してきたのか。これを検証する必要があるのだが、ウィキペディアでは、<一般的に幼稚園・保育園児から中学生までを対象にしたもので、主に学問・スポーツや楽器などがあげられる>と説明している。(2021年12月8日閲覧)

「習」という漢字に着目する。「常用字解」(白川静、平凡社)によると次のような意味がある。「習」は神への祈りの文「祝詞(のりと)」が入った器と、それを摺(す)る羽でできている漢字だ。羽で器を摺(す)ることは祈りの効果を刺激する行為で、それを繰り返すことを「習う」という。国語では「慣れる」の意味で、繰り返すことで「習わし」「習慣」となる。それで「習」はくりかえす、「ならう、なれる、かさねる」の意味となるということらしい。

※無断転載はしないでください
武道研究をベースにした体育科教育とスポーツ社会学が専門の有山篤利さん(追手門学院大学教授)は学校のスポーツについても技術偏重を指摘している。
「これまで体育の授業は『スポーツのやり方=技術』偏重。つまり、競技のやり方しか教えてこなかった」
(当サイトでの高松平藏との対談記事より)


日本の教育方法は、反復練習によって技術やそれに伴う勘所を身体化する傾向が強いが、「習う」という漢字の解釈ともよく合う。これに準じていえば、「習い事」とは反復練習による技術習得の機会といえる。また、現在の社会においては、市場原理に基づく学校外での技術習得サービスのビジネスと理解できる。「習い事」産業ともいえるだろう。

ドイツから見た時に、スポーツを「習い事」と見ることに違和感があるのはこの部分だ。

もちろん、スポーツをするには一定の技術習得が必要だ。しかし、スポーツは技術だけではない。特にドイツのスポーツクラブで展開されるスポーツは幅広いもので、社会化されたスポーツの姿が浮かび上がる。個人にとってはライフスタイルの一部分を占めるものだ。レジャー産業とも一線を画す。(上表「ドイツのスポーツクラブの機能」参照)

このように整理したときに、スポーツを「習い事」と定義付けてしまうと、矮小化した個人的なものになってしまうのではないか?また、スポーツのみならず楽器やダンスなど他の分野もそうだろう。ひいては社会デザインを考えるときに弊害にすらなっている可能性がある。(了)


著書紹介(詳しくはこちら
「スポーツクラブ文化」について、たっぷり書きました。

都市の魅力を高めるスポーツ
スポーツは地域のコミュニティを作る

執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリストで当サイトの主宰者。 著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。
2020年には「ドイツのスポーツ都市 健康に暮らせるまちのつくり方」 (学芸出版 3月)、「ドイツの学校には なぜ『部活』がないのか 非体育会系スポーツが生み出す文化、コミュニティ、そして豊かな時間」(晃洋書房 11月)を出版。一時帰国では講演・講義、またドイツでも研修プログラム「インターローカルスクール」を主宰している。プロフィール詳細はこちら。また講演や原稿依頼等はこちらを御覧ください。