ドイツの大晦日、人々が大量に花火を消費。元々民俗的風習だったものが消費経済に組み込まれた結果が「花火批判」に。

ドイツの大晦日には、年が明けると個々の人々が一斉に花火を打ち上げる。しかしここ数年、花火の禁止に向けた意見が強まっている。これは祝祭的な性質のものが市場経済の枠組みに取り込まれ、使用される量が膨大化。今日の社会では受け入れ難くなっていることを示している。


花火の弊害はこんなにある


花火を禁ずべき理由は、粒子レベルの物質による大気汚染などの環境への影響に始まり、火災と負傷への対応のための消防・医療分野の負担、翌日の清掃の自治体負担など、合理性に欠けているからだ。例えばコロナ禍では花火が禁止されたが、これはただでさえも医療分野の負担が大きかった時期に、負傷者の対応が難しかったためだ。

さらに戦争難民への配慮も必要だろう。私自身、初めて大晦日を過ごした時に思い出したのは、湾岸戦争(1991年)でよく報道された夜間の大量のミサイル攻撃の映像だった。戦争難民としてやってきた人にとっては過去の記憶を甦らせる可能性もある。


悪魔祓いから公的行事、そして私的習慣へ


歴史を振り返ると、大晦日といえば中世以前も人々は大声で騒ぎ、鍋などを使って大きな音を立てていた。悪霊払いが目的だった。時代が下がると宮廷の祝賀で花火が使われるようになり、19世紀には主要都市で大晦日などに打ち上げられるようになる。

20世紀初頭には経済的に余裕のある個人が花火を打ち上げるようになった。公的なものから私的なものへの変遷である。これが現在の習慣に直接つながり、花火市場の拡大化に繋がったと推測できる。


祝祭と経済:文化の変容と調和が課題


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祝祭的なものや民俗的風習はそもそも、そのコミュニティの中での整合性はあるものの、経済的合理性からかけ離れた性質がある。例えばお祭りで担ぐ「無駄に装飾された神輿」などがそうだ。ドイツのビール祭りでも、今日重機が発達しているにも関わらず「無駄に大きな木を人力で立てる」行事がある。しかし、これらはコミュニティにおいて重要な行為なのだ。

歴史的視点に立つと、民俗的風習だった中世の大晦日の悪魔祓いが、20世紀には個人の花火の消費経済に変質。今世紀に入りその量が格段に増え、社会的コストに大きな負担をかけているのを示している。

この手の変化は近代化の過程で起こるが、大晦日の花火もまた同じ道を辿っており、その変化に直面している。

そして適切な時間をかけて、適切な形に変える必要がある。おそらく単純に「来年から法的に禁止」では済まない話だろう。今日、中世の大晦日の悪魔祓いとしての意味合いはなくなっているとしても、長年の習慣から「物足りなさ」を感じる人がいるからだ。下手をするとアメリカの禁酒法(1919年)のように、闇ルートが発生する可能性もある。

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ドイツで人々は毎年大晦日の花火に1億3,000万ユーロ(約201億5,000万円 1ユーロ=155円)を費やしている。花火が禁止されると業界は一気にダメージを受けるであろう。それに対して昨年は「環境負荷のない花火」を発売した事業者もある。(了)


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ドイツの地方都市の質はどのようにして作られているのか?


執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリストで当サイトの主宰者。 著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。
2020年には「ドイツのスポーツ都市」 (学芸出版 3月)、「ドイツの学校には なぜ『部活』がないのか」(晃洋書房 11月)を出版。一時帰国では講演・講義、またドイツでも研修プログラム「インターローカルスクール」を主宰している。プロフィール詳細はこちら。また講演や原稿依頼等はこちらを御覧ください。