コロナ感染が私たちに多くの課題や問題を提示している。そのひとつが「国家の権力」をどう使いこなすかということだと思う。

2021年8月3日 文・高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)


重なった2つの発言


「日本には私権制限なじまない」という類の政治家の意見(※)を聞いたとき、身代金の支払いおよび「超法規的措」をとったダッカ日航機ハイジャック事件(1977年)のときの福田赳夫首相の言葉、「一人の生命は地球より重い」を思い出した。

※例えば、次の記事『加藤官房長官「ロックダウンはできない」 知事会提言に否定的見解』(2021年8月2日 毎日新聞電子版)

このハイジャック事件の全貌についてはよく知らないし、現時点では調べずに書いている。それゆえ、「的外れ」とのご指摘を受けるかもしれない。それにしても、どちらの発言も、「国家権力の使い方」がいかにもこなれていないように思うのだ。その理由を書き留めておく。


国家には責任がある


言うまでもなく国家権力は使い方を誤ると、とんでもないことになる。
一方で国家には権力が巨大ゆえに、それに見合った大きな責任もある。例えば「個人の自由」「公共の福祉」を最大化することがそうだ。しかしコロナ感染の対策では両者がぶつかる。こういう時に国家はどのように責任を果たすべきか。それは権力の暴走を防ぐ様々な安全装置つけながら、倫理的な熟考のうえで判断し、権力を限定的に使うことである。

権力行使は古典的な手法ともいえるが、それでも倫理的な熟考を経て、ドイツは実行した。もちろん、そういう権力行使に反対運動もあった。が、反対できるというのは「意見の自由」を保障しているからだ。それでも政治家の言葉などを拾っていくと「責任のための苦渋」が散見される。


コロナが提示してくれた日本の課題


だが、日本の場合「自粛を要請」という強い「空気」を放出するだけで、明確な国の責任に関する熟慮が見いだせない。そのうえで「私権制限はなじまない」と言い出すと、国は責任を放棄しようとしているように見える。放棄といわずとも、責任について真摯に考えようとしていないように思えるのだ。

そのように考えたとき、「一人の生命は地球より重い」という発言も、小学校の道徳の授業ならいざしらず、国家の責任としての判断材料としてみると、いかにも稚拙な印象を受けるのだ。この2つの発言から考えると、日本は国家権力についての議論をもっと深めるべきだと思う。コロナ感染はそういう課題を提示してくれた。(了)


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執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリストで当サイトの主宰者。 著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。
2020年には「ドイツのスポーツ都市 健康に暮らせるまちのつくり方」 (学芸出版 3月)、「ドイツの学校には なぜ『部活』がないのか 非体育会系スポーツが生み出す文化、コミュニティ、そして豊かな時間」(晃洋書房 11月)を出版。一時帰国では講演・講義、またドイツでも研修プログラム「インターローカルスクール」を主宰している。プロフィール詳細はこちら。また講演や原稿依頼等はこちらを御覧ください。