コロナウィルスの蔓延は同時期に世界規模でおこり、対応している。そのための原理が国ごとにどう違うのかが比較できそうだ。 とりわけ日独を見た時、団結原理の有無が目につく。

2020年3月25日 文・高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)


実は個人主義には団結原理がいる


ドイツでは3月21日以降、飲食店や公園も閉鎖。公共空間において基本単身での外出のみ(家族は除く、他人とは一人まで)。その上で人と1.5m以上距離をとること、と制限が厳しくなった。(=冒頭写真)

これは、日本よりも感染の広がり方が著しいという事情もあるだろう。しかし、ドイツの都市を継続的に見ている立場から言えば、権力による制限は、安心して自由に振る舞える信頼性の高い公共の空間(社会)を復活させるため、という了解があるように思えるのだ。
(参考: 欧州で人々はなぜマスクをしないのか考えた

同時に、個人はというと、公共空間の信頼性復活のために「連帯」しようということになる。 「連帯」については専門的な議論がたくさんあるが、個人主義の団結原理と理解できるのではないか。

個人主義とは、自由に振る舞い、自己決定できることが前提だ。ところが病気や経済的理由で、そうもできない人もいる(飢餓で生命の維持さえ難しい人もいるのだ)。そういう人たちを連帯で助け、これによって皆が「自己決定できる私」でいられる。これが個人主義の社会である。


政治制度と整合性のある団結原理


コロナ蔓延で、ドイツでは連帯の確認や強調が繰り返し行われている。 外出をしないことは、感染拡大を防ぐ「社会的責任」であり、消極的な連帯ともいえるだろう。
(参考: SDGsは「思いやり」ではない

3月18日に行われたメルケル首相の演説は、戦後最大の困難な時期であることを明言、日本でも注目された。この演説に強い説得力があるのは、個人主義とデモクラシーを前提に、連帯を求めたことにあると思う。連帯は国の構造と整合性のある団結原理で、政治家の言葉としても適正だ。
(参考 ドイツのコロナ対応で強調される「連帯」の意味 東洋経済ONLINE)

ホームレス・貧困者のための食料アクション。社会的接触を最小限化が行われていることを受け、接触せずに食料を必要な人に渡すとりくみ。これも「連帯」である。(2020年3月24日撮影 エアランゲン市)

一方、日本を見ていると、今日的な団結原理が欠如しているように見える。「挙国一致」「滅私奉公」などは明らかに合わない。仮の敵国を想定した、排除的な原理の団結もおかしい。

かといって、「フクシマ」のときのように「絆」という声も聞こえてこない。もっとも絆には、語源的に「親子の絆」といったように、切っても切れない血縁とか地縁という関係が背景にある。 「ワンチーム」とカタカナを用いても、地縁組織のような強制性が透けて見えるのは、個人主義とデモクラシーに根ざした団結原理がないからではないか。


同調圧力のさじ加減


団結原理の欠如した日本だが、コロナ蔓延には個人の協力や権力による制限はどうしても必要だ。日本の場合、うがった見方かもしれないが、 「同調圧力のさじ加減」 が、事態解決のための権力側の腕の見せ所と映ることがある。

たとえば、「ご理解いただきたい」という言葉もそう。暗に「受け入れてほしい」と言う空気を放射しているように思える。

そしてコロナ対策でも「自粛」を「要請」する。自粛はもちろん団結原理ではない。すこしきつい言い方をすると、「自粛しない人は非国民だからね」という同調圧力の空気を発しているように思えるのだ。

団結原理のない個人主義は、団結のための政治的言論も成り立たない。そればかりか自己責任という緊張感を背負う、バラバラの個人の集合体になっているのではないか。(了)

【追記】 西洋の団結原理「連帯」が日本に登場した日
安倍首相の口からも「連帯」が出てきました

執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリストで当サイトの主宰者。 著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。 最新刊は「ドイツのスポーツ都市 健康に暮らせるまちのつくり方」 (2020年3月)
一時帰国では講演・講義、またドイツでも研修プログラム「インターローカルスクール」を主宰している。プロフィール詳細はこちら