発想がどうも違う…企業とSDGs (持続可能な開発目標)の関係を見ながら日本で欠けている部分を前回考えた。今回は SDGsで重要な、「誰一人取り残さない 」ことの理解について考察したい。

2020年2月20日 文・高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)


どうやって「誰一人取り残さない」?


中世以降のドイツ都市の発展を見ると、さまざまな問題解決と「人間の尊厳」を実装する歴史だ。そこにはSDGs(Sustainable Development Goals/持続可能な開発目標) の発想と同様のものが見て取れる。

それゆえ、欧州で今更SDGsを声高に言う必要もないのだろう。裏を返せば、日本のSDGsで「人間の尊厳」の了解が決定的に欠如していると思う。ということを下記の参照記事で書いた。
参照:日本企業のSDGsで決定的に抜け落ちているもの

ドイツから見ていて違和感を覚えることが他にもある。
それはSDGsが誓う 「誰一人取り残さない(leave no one behind)」 という部分だ。この表現の思想背景を見る必要があるが、解釈は難しい。ただ日本語で書かれた解釈に「思いやり」と書かれたものが散見される。


「自己決定をする私」と他人


「思いやり」はいい言葉だ。だが、ドイツを見てきた私の理解でいえば、「思いやり」ではなく「連帯」という概念で 「誰一人取り残さない 」ようにするのではないかと思う。

連帯は日本社会で特殊だ。「連帯責任」「連帯保証人」といった使われ方をする。しかし、欧州ではもっと日常的で、しかも社会保障などの原理になっている。「赤の他人たちで 、困っている赤の他人を助けましょう」というような意味合いだ。これがあるから、車椅子やベビーカーの「赤の他人」をすっと手伝える。

ご多分にもれず、これもキリスト教から発展してきた。もとは「兄弟愛」で、「自由・平等・博愛」の「博愛」の部分である。

さて連帯をする個人に着目すると、「自己決定をする私」という自己像が基本になっている。自分の人生は自分で設計していくということだ。個人主義である。だが、個人主義には「他の個人との関係」という課題が当然生じる。そのひとつが連帯だ。

それに対して、「思いやり」とはなにか。解きほぐすと、次のような理解ができそうだ。

  • 強くて権威のあるお父さんが、弱き者を温情で助けてあげる
  • 他者の意図・文脈を汲み取る(が、誤解も多い。「空気」の文脈)
  • 仏教的な「えにし」の発想が重なる

他にも解釈が成り立つかもしれないが、個人主義ベースの「連帯」とは異なる。

では、「連帯」はどうやって「 誰一人取り残さない 」ようにするのか。これを次に考えていこう。


SDGsを読み替えてみると・・・


まず、個人主義で重要な「自己決定をする私」でいたければ、「自由」という概念が大切になる。

だが同時に「自己決定をする他人」をリスペクトしなければならない。というのも、誰かの「自由」が、他人の自己決定を邪魔したり、それをできない社会にすることはだめだからだ。

そのために「平等」があり、「連帯」によって「自己決定が困難になっている他人」を支援する。「自由の機会」の平等性を確保である。そして、こういうことの中心的概念になっているのが相互敬意である「人間の尊厳」なのだ。

「必要な環境」はSDGsとほぼ重なる。「誰一人取り残さない」ためには下部分の「必要な考え方」が大切だと思う



ここでSDGsの 「誰一人取り残さない」という部分を読み替えると、誰もが「自己決定をする私」でいられる環境を、連帯でもって実現しようということだろう。

以上が私の理解である。
ここから考えると、「思いやり」という日本語でSDGsを発想していけば、いずれどこかで大きな齟齬が生じるように思えてならない。(了)

 執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。当サイトの主宰者。著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。一時帰国で講演・講義、またドイツでも研修プログラム「インターローカルスクール」を主宰している。プロフィール詳細はこちら