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西村:フレイヤの夫のヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ伯爵は「クライザウ・サークル」という反ナチス、反ヒトラー運動の中心人物だった人です。ヒトラー暗殺を計画したという容疑でゲシュタポに逮捕され、戦争が終わる寸前に絞首刑になっている。

高松:当時、さまざまな抵抗運動がありましたが、「クライザウ・サークル」もそのひとつ。ただ彼は暴力には反対で、暴力的に転覆をめざすレジスタンスグループにも協力しようとしなかった。クーデターの計画に関わっていたことことが証明されなかったにもかかわらず絞首刑になりました。

西村:そうですね。

高松:それで、フレイヤ・モルトケとチャドゥックはどこでどうつながるのでしょう?

西村:それが、南アフリカで知り合うのです。

高松:あらま。意外な展開です。

西村:ふふふふ。戦争が終わって、夫をなくした夫人が息子2人を連れ、親族を頼って南アフリカへ移住するんです。

高松:そのころチャドウィックも南アフリカに?

オンラインで「長電話」。西村仁志さん


西村:そうです。チャドウィックも戦後、南アフリカに起こった演劇運動に参加するために移住していたのですが、その後ケープタウンにあったイギリス海軍提督公邸の庭を世話していた。2人とも戦争で苦労したのでいろいろ共感するところがあったのだと思います。

高松:すごい偶然と出会いです。

西村:それでね、息子2人をね、ガーデンの中にいれて教育をしたらしい。フレイヤはその中で子どもたちが育つさまを見ていたわけです。後に、学生菜園プロジェクトをやるんだったら最適任のガーデナーだと。

高松:まるで戦争前後を題材にした映画のようです。

西村:そう。すごい話。彼女はその後、ドイツ出身のオイゲン・ローゼンシュトック=ヒュシー教授を頼ってアメリカに移住します。この教授がダートマス大学を退職した後、客員教授としてUCサンタクルーズに着任していた。

高松:アメリカにつながってきました。

西村:はい。UCサンタクルーズは1965年に開学した新しい大学で、サンタクルーズ市の郊外の丘の上の農地と森だったところに建設されました。

高松第1回目の対談で拝見した大学の写真、緑たっぷりですね。なるほど、そういう経緯があったわけですね。

西村:それで、新しい大学がこの地にしっかり根を下ろすにはどうすればいいだろうかという議論が起こる。そこで社会思想史のローゼンシュトック=ヒュシー、先ほど名前の出た哲学者のポール・リー、それから歴史学者のページ・スミスあたりから話が出てくるんです。

高松:それはどういう意見だったのでしょう?


西村さんによると、1967年からUCSCの学生菜園プロジェクトを指導。着任の翌日から1人で黙々と地面を掘り始めたという。しだいに学生たちもこのプロジェクトに加わってきた。(写真は西村仁志さん提供)


西村:「学生たちによってこの地を耕して菜園をつくるプロジェクト」をやろうという話です。こういう分野の先生たちからこうした議論が出てくるのも興味深いですね。

高松:社会思想史、哲学、歴史学の学者からそういう話が出てくるのが面白い。

西村:そうでしょ。こうした議論を耳にしたフレイヤが、関係者にアラン・チャドウィックを最適任者として紹介したのです。実はチャドウィックもアパルトヘイトを嫌い、南アフリカからアメリカ東海岸に移住していたのでした。

高松:壮大な思想と人の移動の話でした。次回は最終回。チャドウィックとヒッピームーブメントについて話したいと思います。(第4回 最終回につづく)

次回は最終回。若者の反抗から「持続可能性」へどのようにつながるのかを検討します。


4回シリーズ 長電話対談 西村仁志×高松平藏
■欧州からアメリカへ伝播する「緑の思想」
第1回 アメリカ社会の肌触りとは?
第2回 頑固じいさんに若者が心酔した
第3回 ドイツから米国へ、まるで大河ドラマ
第4回 若者の反抗から「持続可能性」へ

ドイツ・エアランゲンからネットを使って対談。あたかも「長電話」の如く、長尺対談記事の一覧はこちら