学校と部活がセットになっている。この構造は地域社会における文化やスポーツのあり方、ひいては日本社会のあり方に大きな影響を及ぼしていたのではないか。ドイツ留学経験があり、演劇教育が専門の仁科太一さんが、「ドイツの学校にはなぜ『部活』がないのか」(当サイト主宰・高松平藏著)について自分の関心と関連付けて書評を書いてくださった。
2020年12月11日 文・仁科 太一(東京学芸大学修士課程)
演劇をめぐる2つの疑問
広く読まれてほしい本です。スポーツについての本ですが、スポーツを文化芸術に置き換えて読むこともできると思います。文化芸術と地域、コミュニティといったテーマに関心がある人が読めば、ひょっとすると思考が一つ開けたような感覚になるかもしれません。僕がそうだったからです。
留学する前、「演劇教育」に対して以下のような疑問を抱いていました。
疑問1 演劇を学校で、その正当性は?
演劇が大事だという感覚はあるし、だからこそ広く市民に演劇にふれる機会が与えられるべきだと思っていたのですが、そうした機会をどう実現するかを考えると、学校で演劇的な授業をするということが思い浮かびます。
しかし、学校は学校で一杯いっぱいです。何とか演劇を挿入することはできるかもしれませんが、果たしてただでさえキツキツのスケジュールのなかに演劇を押し込むことにどれだけ正当性があるのか。
疑問2 演劇教育は演劇業界への選抜装置ではないか?
そもそも演劇教育をなぜ必要だと考えるのか。高校のころ演劇部でしたが、部員のなかには俳優を目指している人もいました。大学では、公立の劇場のプログラムに小さいころから参加していて、そこで働くことを夢見ている人がいました。彼らは演劇にふれ、演劇で生きていきたいと考えていました。
しかし、演劇で生きていくのは大変です。圧倒的に需要よりも供給があり、ごくごく一部のパイを手に入れるか、演劇で生きることを諦めるしかありません。演劇教育は、演劇業界へ優秀な人材を選抜するという搾取の構造になっているのではないか。
参考記事:「托卵モデル」という日本の構造
スポーツの普及は学校が選手を開拓・強化。その上澄みを取る「托卵モデル」になっている。スポーツ社会学が専門の有山篤利さんが当サイト内の記事「長電話対談」で指摘している。(高松平藏)
あらゆる問題を学校で解決する日本
一つ目の疑問は、知らず知らずのうちに、あらゆる問題を学校のなかで解決しようとしていることによって生じているのだと気づきました。ドイツでは、学校の授業は短く、空いた時間にスポーツクラブに参加したり、文化芸術にふれたりできます。
これは、広く教育的な営みを学校以外の場に分散しているのだとも考えることができます。スポーツや文化芸術を通して、学校とは異なる人と出会い、異なるコミュニケーションを取ります。そうしていろんなコミュニティに所属しながら、個人を尊重する態度が身につくのだと思います。それが普通であり、学校のなかに社会のすべてを回収しようとすることの方が異常なのです。
文化系の部活ですら勝利至上主義
二つ目の疑問は、スポーツにしろ文化芸術にしろ、それへの関わり方にはいろいろあるということによって、解決されると思います。日本の部活には勝利至上主義的な傾向があります。運動部にしろ文化部にしろ、大会やコンクールで勝つことが目指され、それ以外の目的(楽しむこと、友だちと交流すること)は考慮されないか、低いものだと考えられているように思います。
スポーツでは、競技スポーツをしたい人もいれば、スポーツを介して人と交流したい人、身体を動かすことで健康的でありたい人がいます。スポーツの場は、会社や学校とは異なる結びつきを生み出します。これは会社や学校だけの結びつきしかない社会に比べてとても強靭なものとなるはずです。演劇教育もまた、そのような場の選択肢の一つとして社会に位置付けることができると思います。
すらすら読めますが、内容は具体と抽象を行き来するので、とってもスリリングです。ドイツの学校にはなぜ「部活」がないのか。それは翻って、日本の学校にはなぜ「部活」があるのか、そしてそのことが日本社会のあり方にどう影響しているのかを考えることができるはずです。(了)
執筆者:仁科 太一(にしな たいち)
東京学芸大学教育学研究科総合教育開発表現教育コースに在学中。ドイツの演劇教育と乳幼児演劇について研究している。