なぜ「余暇」が成り立たないのか?日本の国の全体的な状況から考えてみた。

2022年9月18日 高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)


日本のスポーツは「勝利至上主義」「ガチ問題(真剣に勝負に挑むこと、そのためのトレーニング)」といわれる基本的な問題がある。

だがスポーツの語源には「遊び」という意味が含まれるとよく紹介されるが、今日に置き換えれば「余暇」と解釈できるだろう。

あくまでも余暇(=遊び)として試合に出るのなら良いが、これが人生をかけたような捉え方でスポーツをすることがよしとされているのが日本だ。


余暇は工業化の登場で生まれた


ドイツの様子を見ると、スポーツは余暇のものという位置付けが大きい。個人的にいえば「スポーツは遊び」という説明がドイツでようやく理解できた。

その余暇の登場は工業化にある。
まず、理屈では24時間働く環境ができる。そして、労働者は時間単位で切り売りすることになる。そうなると「労働に縛られない自分の自由な時間」という概念が際立ってくる。

つまり「労働」「余暇」は並列の関係で、自分でその配分を自己決定する態度が必要になってくるのだ。この自由時間(余暇)の過ごし方のひとつがスポーツなのだ。


洗練された前近代の国、日本


工業化とは近代化のひとつだが、自己決定で「労働・自由」を扱う感覚も一種の近代的な時間感覚といえる。

ところが日本はこの近代的感覚ができあがってこなかった。
戦後もっとも発達した「会社」という村の中で、前近代的な時間感覚のまま日本社会は洗練されてきた。例えていえば、鉄道が電車に発達せず、とてつもないスピードが出る汽車を作ったようなものだ。

つまり、先進国に見えても実は、高度に発達した前近代なのだ(再帰的前近代※)。これではスポーツが「余暇」として捉えられる感覚はなかなかできてこない。ここから議論を始めてみる必要がありそうだ。(了)

※日本は洗練された再帰的前近代というアイデアは藤原智也(愛知県立大学 准教授)との充実した議論の中で至ったことを記しておく。


著書紹介(詳しくはこちら
余暇は社会的創造性につながる

都市の魅力を高めるスポーツ
スポーツは地域のコミュニティを作る

執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリストで当サイトの主宰者。 著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。
2020年には「ドイツのスポーツ都市 健康に暮らせるまちのつくり方」 (学芸出版 3月)、「ドイツの学校には なぜ『部活』がないのか 非体育会系スポーツが生み出す文化、コミュニティ、そして豊かな時間」(晃洋書房 11月)を出版。一時帰国では講演・講義、またドイツでも研修プログラム「インターローカルスクール」を主宰している。プロフィール詳細はこちら。また講演や原稿依頼等はこちらを御覧ください。