
私は25年にわたり、ドイツのマンガ・シーンを現地から観察し、報道も行ってきた。長らくこの市場を支えてきたのは、ファンタジーやアクション、スポーツといった「異国的世界」を描く作品群である。
だが『極主夫道』(おおのこうすけ・新潮社)の登場によって、状況は変わった。元ヤクザが家事に全力を注ぐというこの物語は、幻想ではなく「日常」を中心に据える。そこには、日本を30年にわたって学び続けてきたドイツ社会だからこそ成立した、文化的転換が表れている。
2026年2月5日 文・高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)
「冒険的な食」だった寿司が「日常の食」へ

2000年代初頭、私が住むエアランゲン市内の友人宅でのパーティで、「寿司」を振る舞ってもらったことがある。見た目こそ寿司だったが、見様見真似の「寿司もどき」で、味は別の食べ物だった。当時、本格的な日本料理は極めて珍しかった。
それから10年後。学生たちが「寿司パーティー」を開き、子連れの家族が箸を使って日本食レストランで食事をするようになった。それと並行して、日本文化のイメージも変化していった。
かつては「富士山」「芸者」「トヨタ」といった記号が支配的だったが、今では「抹茶」「弁当」「ラーメン」が日常語彙として使われている。
人口12万人のエアランゲン市には、マンガのポスターやファングッズで内装されたラーメン店がある。ここには、ドイツにおいて「食」と「サブカルチャー」が独自に融合している様子が表れている。日本のラーメン店では、まず見られない内装だ。2年ごとに行われるコミックの祭典「国際コミックサロン」では2000年代から「MANGA」の存在が確実に大きくなっているのが見てとれた。
言語の面でも変化は明らかである。若者が、アニメで覚えた日本語で私に話しかけてくることがある。
この四半世紀、ドイツは日本の製品を単に輸入したのではない。日本の日常的な場面、その「空気」や「コード」までも、段階的に取り込んできたのである。

なぜ『極主夫道』はドイツで成立したのか
これまでのドイツのマンガ市場では、ファンタジー世界、アクション冒険、あるいはスポーツが主流で、日常描写はあくまで脇役だった。
『極主夫道』は、このパターンを破る。恐れられていた元ヤクザが献身的な主夫になる――この設定自体が、明確なコメディ性を孕んでいる。荒々しい身振りが、やさしい文脈に置かれることで笑いが生まれる。
そのユーモアは普遍的だ。テキストは少なく、身体的なギャグが多く、テンポも速い。短いフォーマットに慣れた読者にとって理想的である。
同時に、買い物、食事、近隣関係といったエピソードは、日本の日常的ルーティンに深く根ざしている。
この「日常を一緒に読む」感覚が成立するのは、ドイツ側に十分な文化的背景知識が蓄積されてきたからだ。
対照的に、ドイツにおける『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』のような大ヒット作は、壮大なファンタジー世界による「没入」を提供してきた。
だが『極主夫道』は、日常をコミカルに誇張することで笑いを生み、これまで断片的にしか存在しなかったドイツの市場領域を切り拓いたのである。ドイツ語版は2019年にカールセン社から刊行され、現在14巻まで出版されている。ファンタジー以外のジャンルとしては、最も人気のある作品群のひとつとなっている。Netflixによる映像化は、従来のマンガ読者層を超えた広がりをもたらした。

異国趣味から親密さへ、そしてその先へ
ドイツでは、この作品を「家事を担う男性像」をめぐる社会的文脈の中で読む向きもある。
しかし私の目には、別の点がよりはっきりと映る。日常文化は、長い時間をかけて共通の共鳴基盤が育まれたとき、国境を越える。
この「訓練」は、冒頭の「間違った寿司」に始まり、かつてはアジア的雰囲気を表すために使われていた筆書き風フォントを経て、意味が完全には分からなくとも漢字をデザインとして用いる段階へと進んだ。そして人々は、ラーメンを自然に注文し、日本のマンガの日常的な笑いを理解する世代へと至った。
その象徴的な出来事が、2025年夏のマンハイムでのAnimagic※である。『極主夫道』の作者・おおのこうすけ氏が招待ゲストとして登場し、フェスティバル屈指の集客を記録した。
これは一作家の成功という以上の意味を持つ。ドイツ社会が30年をかけて、日本の日常イメージに対する繊細な感受性を獲得したことの証左なのだ。(タイトル画像はAnimagicにおけるカールセン社のブース。『極主夫道』が大きく扱われている)
同時に、ドイツのマンガ業界にとって次の問いも浮かび上がる。
もし「日常」を描くマンガがここで根付くのなら、どのような題材や形式が考えられるのか。そして、この蓄積された文化資本を、翻訳、マーケティング、イベント戦略にどう組み込んでいくべきなのか。MANGAと日本文化が、今後ドイツ社会とどのような相互作用を見せるのかも、注目される。(了)
2025年9月に執筆した。時系列は当時のもの。
※Animagic:ドイツ最大規模のアニメ・マンガ・コスプレ系イベント。日本のポップカルチャーが「一部の愛好者文化」から「世代横断的イベント」へ移行した象徴的存在。
高松平藏 著書紹介(詳しくはこちら)

執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。プロフィール詳細はこちら


