ドイツで極右勢力の台頭が報じられて久しい。極右の存在は日常に溶け込みつつある。ドイツの地元紙の記事は、私たちに「親しい人が極右になったとき、どう向き合うのか」という問いを突きつけている。

ドイツで極右勢力の台頭が報じられて久しい。極右の存在は日常に溶け込みつつある。今年2月の連邦議会で極右政党は20%の得票率をえた。仮にこの数字を日常の場面に置き換えれば、ビール祭りで隣に座る5人に1人が極右支持者でもおかしくはない。そんな現実を描いたドイツの地元紙の記事は、私たちに「親しい人が極右になったとき、どう向き合うのか」という問いを突きつけている。


身近に極右支持者が現れる時代


「彼らがこんなに近いなんて、恐ろしい」(ハンス・ベラー記者 エアランガー ナッハリヒテン紙 2025年9月11日付)

地元紙の記事「彼らがこんなに近いなんて、恐ろしい」ではこう描く。– 今日、極右の支持者が「どこか遠くの出来事」ではなく、友人や同僚、さらには家族の中にまで入ってきている。

記者の体験談として、長年 SPD を支持してきた「普通の」人が突然「今は AfD を支持する」と言いはじめることがあった。そういった人々は排他的な言葉を使うが、「どう見ても善良にしか見えない」教師やエンジニア。つまり極右は、ステレオタイプの“スキンヘッド”や“過激な街頭活動家”だけでなく、日常の生活空間に入り込んでいる。

記事が示す鍵は二つだ。ひとつは「感情の共有」が重要だという点。論理的な反論だけでは届かないが、信頼関係のある人からの働きかけなら耳を傾ける可能性がある。そしてもう一つは「距離を置かない」こと。相手の人間性そのものを否定するのではなく、排外的な発言にははっきり反対しつつ、繋がりを保つことが推奨される。


なぜドイツで極右が問題なのか?


極右が社会にとって危険であるのは、単に政策が過激だからではない。最大の問題は、彼らが民主主義の根幹的価値とぶつかるからだ。

民主主義は、多様な意見を認め合い、平等な尊厳を前提とする政治体制である。しかし極右の議論は「ある集団は他より劣っている」という前提のもとで排除を正当化する。これは民主主義のベースそのものを侵食する。

ドイツには「闘争的民主主義(wehrhafte Demokratie)」という概念がある。つまり、民主主義はただ自由を許すのではなく、その自由を壊そうとする勢力には闘いを挑む義務があるという考え方だ。ナチスの歴史から学んだ「二度と繰り返さない」という決意が制度的にも精神的にも埋め込まれている。だから極右の台頭は単なる政党の浮沈ではなく、民主主義そのものをめぐる価値闘争と言える。


もしも親友が「日本人ファースト」を叫んだら?


一方で日本では、選挙制度や形式的な民主主義は確立されているが、民主主義を「価値観」として深く自覚する議論は少ない。そのため、多くの人にとって極右や排外主義は「均質社会における排外主義の曖昧な受容」、といったところで止まっている可能性もある。「ちょっと過激な意見」で済まされるようなケースだ。

しかし現実には、日本でも「日本人ファースト」を掲げるスローガンに賛同する人々や、「ネトウヨ」と呼ばれるネット上の排外主義的な人々が存在している。ドイツと日本は表面的に似た現象を抱えるが、そのベースは大きく異なる。そうした違いを踏まえてもなお、ドイツの記事が提示する「対処法」は示唆に富む。

つまり、相手の人間性を否定せず、信頼関係を保ちながらも、排外主義的な言説には黙らず反論する。論理よりも感情への働きかけが有効な場合もある。これは日本においても有効な手がかりとなるはずだ。

再び記事に戻ろう。筆者のベラー記者は次のように述べている。
極右をめぐる問題は、突き詰めれば「社会の分断をどう防ぎ、民主主義を守るか」という問いに直結する。もし親友が極右に傾いたとき、私たちは即座に縁を切るのか、それとも「対話の窓」を開いたままにするのか。容易な答えはない。しかし、民主主義が「人と人との関係性」によって支えられているとすれば、無視せず、対話を続ける努力こそが最も切実な抵抗だ。(了)


著書紹介(詳しくはこちら
都市社会の民主主義についてのヒント

デモがこんなふうに行われている!
「スポーツクラブは民主主義の学校」の意味、分かりますか?

執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。プロフィール詳細はこちら