
2026年2月28日に始まった米・イスラエルのイラン攻撃は、3月初旬にかけて中東の緊張を一気に高めた。航空ルートの変更やエネルギー市場への影響など、世界の安全保障や経済に波及効果をもたらした。こうした状況を背景に、日本とドイツでどのようにこの件が語られ、理解されているのかを整理してみたい。
2026年3月4日 高松 平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)
「思春期」の民主主義と航空地政学
先週金曜日(2026年2月27日)、筆者は羽田からドイツへ向かったが、飛行ルートは、すでに中東上空を避ける形になっていた。もしこの空域が完全に閉鎖されれば、冷戦期のアンカレッジ経由のような遠回りもあり得る状況だ。
少し前に書いた論考でも触れたが、現在のアメリカの動きは独裁でも反民主主義でもない。しかし、自制が効きにくく、いわば「思春期」のような民主主義の暴走が見られる。この状況を「民主主義テリトリズム」と呼べるかもしれない。民主主義を名目に領土や資源争奪が進む暴走だ。
チャーチルはかつて「民主主義は最悪の政治形態だ。これまで試みられてきた他のあらゆる形態を除けば」と述べた。しかし、現在のこの「暴走」を目にすれば、彼も草葉の陰で青ざめているのではないか。「民主主義というシステムは、実はこれほどまでに制御不能で恐ろしいものだったのか」という不信が世界に広がることは、物理的な空路の封鎖以上に人類にとっての「損害」になる可能性だってある。

日本とドイツ、公共圏で語られる戦争認識の違い
ところで、米・イスラエルによるイラン攻撃が報じられる中、日本とドイツの両方の言論空間に身を置くと、興味深い現象が見えてくる。数量的な調査ではないが、観察から言えばそれぞれの公共圏で語られる「知の枠組み」に決定的な相違がある。
日本の言論空間の一部を観察すると、そこには「戦争という惨劇に対し、自分たちは正しい反応をしたい」という、強い道徳的・心情的な動機が見て取れる。議論の焦点はしばしば「主体のあり方」に向かう。何が正義か、どう反対すべきかといった「個人の良心との整合性」を確かめ合う言葉が前景化する。戦争はまず正しい態度を問う出来事として現れる。
一方で、ドイツの公共圏はどうか。彼らは決して戦争に無関心なわけではないが、表に出てくる言葉はより構造的だ。語られるのは、経済的・地政学的連鎖の一部として、この事態が「欧州、ドイツ、そして市民生活の構造にどう影響するか」という把握と予測である。エネルギー供給、物流の遮断、産業構造の変容などが対象となり、戦争は「善悪のドラマ」である前に、自分たちが生きるシステムの変動として捉えられる。
この違いは感情の温度差というより、公共圏が何をまず問いとするかの差に近い。片方は「私たちはどうあるべきか」を、もう片方は「この世界はどう動くのか」を起点にする。その視点の差は、紛争が起きるたびに浮かび上がってくる。
抽象的に言えば、公共圏で語られる知の枠組みが国ごとに異なり、世界認識のスタイルそのものに影響する。世界が狭まっているのではない。むしろ、私たちの認識の枠組みがどのように世界を切り取っているのかが露わになっているのかもしれない。そのことを意識することが、「狭まりゆく世界」を理解するための第一歩になるだろう(了)
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都市社会の民主主義についてのヒント

執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。プロフィール詳細はこちら



