当日の対話、翌日の議論の発酵。スポーツと社会の関係について学校の先生たちと考えた。

スポーツは、どこで社会とつながっているのか。

先日、学校体育の教師を対象に「記者会見型講演」をオンラインで行った。タイトルは「ドイツのsportと,日本のスポーツはちょっと違う?」(2026年1月24日)

「記者会見型」とは、私が参加者の方から記者会見のように質問を浴びせかけられ、それに答えるという形式のものだ。普段、私は記者会見で「質問する側」だが、これの逆発想。参加者は質問する前提で、私の著書や記事を読んできてくださる前提だ。その方が参加者の方たちの実際の環境や抱えている問題に合うように話しやすい。

今回嬉しいのが、参加者が学校体育の現場に立つ教師の方が多いこと。これは『スポーツを社会のエンジンにする作戦会議』の共著者・有山篤利さん(追手門学院大教授)らの勉強会参加者の方々だ。それにしても、2003年に初めて出した著書から引いて質問してくださった方までいた。

さて、そんな「記者会見」の中身はというと、結果的にスポーツと「社会とその価値観」についての関係を問い直すものだった。自由・平等・連帯・民主主義・人間の尊厳といった言葉が飛び交うような内容で、おそらく「え、スポーツがテーマの会ですよね?」と言いたくなるようなものだったと思う。質問はシンプルなものから、本質的なものにも言及するものまでレベルが高い。「議論の質は『問いの質』で決まる」ものだが、それを実現する場でもあった。


スポーツの目的——日本とドイツの違い


日本の学校スポーツは、結果的に「勝利」を最上位目標に置きやすい構造を持っている。

その中で「勝てる技術」が最大化され、理由付けも「勝利こそ正義」という形に収斂しやすい。また、「社会に開かれている」というよりも「学校」などの中に閉じ込められた状態だ。

それに対して、ドイツのスポーツは、もちろん技術を高めて試合に出ることも大切だが、「いったいスポーツとは何か?」という部分を問うていくと自由や平等などの、ちょっとめんどくさそうな価値観と強く結びついているのだ。そしてそれらは参加・健康・余暇・社交といった概念と連結し、社会に開かれたものになる。その結果、スポーツは「社会の一部であり、社会のエンジンでもある」という形になる。

この違いを「道徳」「倫理」に分けながら、話が進んでいった。


スポーツの現場も「前提から考え直す場」になる


さて、私は普段から、講演の類でも「対話」を重視している。「今日は勉強になりました」で終わるのではなく、むしろ対話を通して「あー、頭がぐちゃぐちゃになった。でもこういう視点からもう一度考え直すべきだ」といった「問い」の獲得につながることを意図している。

今回はそのような形の場が、一定以上のレベルでできたと思う。翌日の参加者のグループによる意見を見ると、整理・疑問・別の見方などが投稿され、24時間で「発酵」してきているのが見えた。

ところで、少し長期的に考えると、21世紀は日本の社会構造を作る直すべき時期だ。究極的には国家デザインに関わるものだが、これは政治と実際の社会との共同作業だ。

そういう観点から言えば、スポーツの現場も十分「前提から考え直す場」になりうると思う。(了)


ドイツの地方都市におけるスポーツとは何か?(共著も含む)


執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。プロフィール詳細はこちら