コラム スタートレックからの洞察 vol.3

技術進化は、人類の本当の「進歩」だろうか? SFシリーズ『スタートレック』に登場する「ボーグ」は、効率と最適化を極限まで追求した存在だが、その姿は人間性や文化を犠牲にした未来の寓話でもある。現代社会において、技術・哲学・社会の均衡が崩れつつある今、私たちはこの「ボーグ的状態」に近づいてはいないだろうか?
2025年12月19日 文・高松 平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)
最適化の果てにあるもの──ボーグの寓話
SFシリーズ「スタートレック」の『新スタートレック』(TNG)に登場する「ボーグ」は、現代社会の変化のその先を示唆する存在である。
ボーグは巨大な立方体の宇宙船で、宇宙を彷徨っている。この宇宙船は人間や他の生物を「同化」し、その身体と技術を融合させて一つの意識として動く集団だ。個の意思や文化は消え、全体のために働く「集合知」となる。これは技術と社会的価値観、哲学的な自我の均衡が崩れた状態の比喩といえる。
このボーグのイメージを最近思い出したのは、バーゼル大学でメディア史・メディア理論を教える研究者、マルティン・ミュラーの論考※を読んだからだ。そこでは、現代社会の知のあり方が、技術と自然科学に大きく傾き、人文学や哲学が周縁へと押しやられている現状が批判的に論じられていた。
この知の偏りは、「第三の文化」※※と呼ばれる潮流と関係している。もともとは、自然科学と人文学の断絶を指摘する議論から出発した概念だが、やがて「(技術系の)科学者が世界観を提示する時代」を正当化する言葉として使われるようになった。ミュラーは、この流れが倫理的・歴史的な省察を置き去りにし、技術的合理性を唯一の判断基準にしてしまう危険を孕んでいると警鐘を鳴らしている。
彼の論点はこうだ。技術や科学が、社会的調和や倫理的価値を超えてしまい、自己完結した独立体系へと近づいているという危険を示している。もしこの傾向が続けば、「技術・哲学・社会」の間にあったバランスは崩れ、人間性や社会的共感が急速に失われかねない。
仮に、技術革新がすべての問題を解決するものだと信じて、倫理や哲学的省察を軽視すれば、人類と社会の共存の基盤そのものが揺らぎ、文明的基盤を深刻に損なう危険がある。
※ Martin Müller, „Das kalte Denken der Dritten Kultur“, FAZ, 26.10.2025 https://www.faz.net/aktuell/wissen/forschung-politik/zukunft-der-geisteswissenschaften-das-kalte-denken-der-dritten-kultur-accg-110739288.html
※※ 「第三の文化」という語は、C.P.スノウの「Two Cultures」論(1959年)を起点に、1990年代にジョン・ブロックマンが再定義した概念。
「最適化」は最良の発展状態とは限らない

この危機を理解する上で有効な概念が「トリレンマ」だ。複数の価値や目標が相互に矛盾し、同時に最適化できない状態を指す。持続可能性の議論でいえば、「経済」「エコロジー」「社会」の三者の間に常に緊張関係がある。重要なのは、これらが単なる選択肢ではなく、互い牽制しあう構造の中で成り立っているということだ。どれか一つを優先しすぎれば、他が犠牲になり、全体の持続可能性を失う。
ボーグの目指す「完全な最適化」とは、まさにこのバランスの崩壊を極端な形で体現したものだ。
トリレンマという概念を意識的にマネジメントすることは、現代文明の健全な発展に欠かせない基本的な「思考フレーム」だと私は考える。これを無視すれば、技術が暴走し、社会的な分断が起こる。そして、倫理的な判断基準がなくなり、社会は「ボーグ的状態」に近づいていく。人類の未来は、この不安定な三角構造のバランスを常に検証し、考えていく必要がある。

トリレンマと文明の未来──最適化の誘惑と人間性の回復
ボーグのアナロジーは、「発展」とは何かを問うている。彼らは高い技術力と効率性を実現しているが、その代償として倫理と文化を放棄した。完全な最適化は、しばしば非人間的な理想に変わる。そして、この「最適化」という概念は、「完全」「完璧」にとって代わるもので、極めて誘惑的だ。数値化でき、管理でき、達成度を測れることが前提になっているからだ。だが、合理性だけでは人間の複雑さを完全には理解できない。そこにこそ、社会の前提や価値を外側から問い直し続けるプロセスのために、倫理と哲学が必要なのだ。
ミュラーの指摘は、この「均衡の危機」、つまり技術が、倫理・哲学を超えて、最適化の誘惑が過剰に強調される危険に警鐘を鳴らしている。テクノロジー、哲学、社会――この三者の調和を取り戻す努力なしに、本当の「進歩」は実現できないということだ。
技術の進化とともに、倫理と人間性の成熟もまた同時に進めなければならない。テクノロジーとは「人間にとって代わるもの」ではなく「人類を高めるもの」であるべきだ。それが、文明がボーグ化せずに未来へ進むための条件だ。(了)

高松平藏 (たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。
著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」「ドイツの学校にはなぜ『部活』がないのか」など。当サイトの運営者。詳細こちら
