地方における公共性と個人主義について考えた

公開日 2021年9月2日

長電話対談
国定勇人(前三条市長)
× 
高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)

ドイツの地方都市の発展を見ていると、市長の役割もかなり大きい。では日本ではどうなのだろう?2020年に現職を退き、「日々の地方のリアリティ」から少し距離を取れる状況になった前三条市の市長、国定勇人さんと地方自治体における首長の役割について話した。 第4回目は日本の公共性の現状と個人主義の限界と変化について。(対談日 2021年4月12日)

※対談当時の状況をもとにすすめています。

全6回 長電話対談 国定勇人×高松平藏
■町は首長次第で本当に変わるのか?■
第1回 志ある市民10人と 町を俯瞰する市長
第2回 市長は大統領よりも力がある
第3回 日本の公務員がジェネラリスト指向である理由
▶ 第4回 地方における公共性と個人主義について考えた
第5回 世界に伍する一流の地方都市にするには?
第6回 文化政策で地方都市を磨け
目次


公共空間なき日本で大切なこと


高松:日本の地域を見ていると、「民間の活力を行政に」「民間ではできないことを行政が」という議論が常にある。この点、どうお考えですか?

国定:あ、すごくいい質問ですね。答えるためにいくつか前提になることを整理する必要があります。まず、結論を言うと、14年間の在任期間で、後半になればなるほど、今のところ、やはり行政がある程度主体になって進めていかねばならないと感じていました。

国定 勇人(くにさだ いさと)
2003年に総務省から新潟県三条市に出向。2006年に一旦総務省に戻るが、三条市長選に立候補し、当選。2020年9月に辞職。現在、衆院選立候補に向けて準備中。1972年東京都千代田区神田神保町生まれ。
オフィシャルブログ:この地に尽くす!〜国定勇人(くにさだいさと)の日記〜

高松:興味深い見解です。

国定:もちろん、いろいろな取り組みを実行委員会などの形態で一緒にやっていただいた方がたくさんいらっしゃいます。しかし、ドイツに厳然とある個人と行政の中間にある領域、公共空間が存在していません。

高松:ドイツにはそういう三層構造が確かに見いだせますね。

国定:たとえばNPOのような非営利法人(フェライン)が、ドイツにはものすごく多いですよね。それは都市国家の歴史の中で育まれていて、常識以上の血となり肉となっていて、とても良い意味で機能しているように私には見えます。

高松 平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリストで当サイトの主宰者。「地方都市の発展」がテーマ。著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。
昨年は次の2冊を出版。「ドイツのスポーツ都市 健康に暮らせるまちのつくり方」 (2020年3月)、「ドイツの学校には なぜ 『部活』 がないのか」(2020年11月)。前者はスポーツ・健康の観点からみた都市計画や地域経済、行政・NPOの協力体制について。後者はドイツの日常的なコミュニティ「スポーツクラブ」が都市社会にどのように影響しているかについて書いている。1969年生まれ。プロフィール詳細はこちら

高松:そうですね。一方、日本でも公共空間を創出すべきという議論はたくさんあります。例えば鳩山政権のときは「新しい公共」という言葉も出てきた。

国定:私も一時期、憧れつつ関心を持った時期もあります。しかし、必ずしもそういう「公共空間」を日本に輸入した方が良いとは、現時点で私は思っていません。寧ろ「日本はやっぱりそうではない」という実感があります。

高松:もう少し詳しく聞かせてください。

国定:ドイツと異なり、プライベート(個人・企業)と行政しか日本にはありません。

高松:はい、日本は二層構造ですね。

非営利組織やボランティア活動に触れています。これらは地方都市の創造性のエンジン。「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」(学芸出版 高松平藏 著)

国定:それゆえに、個人個人の「人間性」ということに集約されると考えます。そこで、最初の質問に戻ると、民間活力を活用しない手はないのですが、そこに過度に期待をするのは今の日本ではかなり危険だと思います。

高松:市場原理が強くなりすぎるということでしょうか?

国定:そういうことです。市の行政職員にプロフェッショナルな意識を持たせ、本当にやりたいと思うことやる。場合によっては市民を巻き込んで進める。そういうやり方の方が良いのではと思うのです。


日本に欧州型の公共空間を作るのは難しい


国定:少し視点が変わるのですが、日本もヨーロッパも元々同じだと思っています。どちらも原初的なムラ社会そのものに「社会性」があり、その社会性というのは個人を基礎にしたものではなく、むしろ抑圧的な面も多い。日本の場合、そのまま今に至っているのかもしれませんけど、皆でムラを運営していくという意味での「社会性」がもの凄くあったわけです。

高松:よくわかります。

国定:ところが、戦後、アメリカ的な考え方があまりにも直接的に日本に入り過ぎて、ムラ社会の良さも空中分解してしまった。その結果、個々人の義務を無視して権利ばかりを主張するようになり、結果としては、ムラ社会にあった良い意味でのタフネスさを奪い取られてしまった。これが日本の戦後社会だと思っています。

高松:私もそこは、同じような意見ですね。

国定:ドイツの地方に目を転じると、行政を進めて行く時、フェライン(非営利組織)を含めた色んな中間領域で頑張っている方々と一緒にやっています
しかし日本はムラ社会にあった良さが空中分解して、結果的に、地方政治、地方行政がリードしなければいけない状況になったと思うのです。

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