
久米宏さんの訃報を機に、日本のニュース文化の変化を考えた。筆者は1969年生まれ、個人的な印象も交えて書いていく。
2026年1月15日 文・高松 平藏 (ドイツ在住ジャーナリスト)
ニュースステーションは10代半ばの頃だったか。このフォーマットはアメリカのテレビの影響もあったと思うが、地方の「お茶の間」で時々見ていた。おしゃれで、都会的で、当時の東京が「TOKIO」へと変貌していく時代の象徴のようだった。それまでの「真面目で淡々としたニュース」と違うと思ったことは覚えている。それ以降、キャスターがトレンディドラマの主題になったのもその影響だろう。また歌番組などの印象が強かった久米さんと「ニュース」のイメージにギャップも感じた。
大人になってからは、テレビをあまり見なくなったので、「久米ジャーナリズム」と言うのもよくわからない。それにしても「真面目・淡々ニュース」との比較で言えば、「久米宏」というパーソナリティを前面に出す、「署名記事的ジャーナリズム」が一気にテレビに現れたようなものだ。
感情的な演出のニュースに感じる疑問
ジャーナリズムは権力の監視が重要で、報道によると久米さんもその姿勢を持っていた。一方、ジャーナリズムは民主主義に欠かせない装置で、それは権力の監視だけを指すものではない。出来事の構造や背景を整理し、議論の前提となる問いを提示することもまたその役割である。久米さんは結果的に、そうしたジャーナリズムへと舵を切ろうとしていたのかもしれない。
(テレビをあまり見ないので)印象レベルの話になるが、「久米さん以降」のテレビ報道は少し違う道をたどったように感じる。「署名記事的ジャーナリズム」が再解釈されるうちに、ナレーションや音楽などの演出が年々派手になっていった。この背景には視聴率競争もあっただろう。それにしてもニュースそのものが「語られる物語」になっているように感じる。そして、これが「民主主義のジャーナリズム」にどの程度資するものなのか疑問を覚える。
少し前のことだが、ネットでメルケル元首相が日本のテレビのインタビューに応じているのを見た。日本語の音声が彼女の声に重なり、さらに音楽で情景が彩られていた。隣で見ていた(ドイツネイティブの)妻が「これ、そんなにエモーショナルに伝えるような内容なの?」とつぶやいた。メルケル氏のドイツ語の発言と比較しての感想だった。
久米宏さんは、信念を持って時代のニュース文化を変えた人だったと思う。しかし、その変化が今どんなかたちで受け継がれているのか、一考すべきではないか?(了)
2026年1月15日 Facebookに投稿したものをベースに再掲
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都市社会の民主主義についてのヒント

執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。プロフィール詳細はこちら


