ドイツから導入すると良いものが一つだけある

ドイツには、日本のような学校部活動が基本的にない。では、なぜドイツではスポーツクラブが社会の一部として成り立つのか。答えは「クラブを作れば民主主義が確立する」ではない。クラブは特効薬ではない。クラブを支える時間、信頼、価値観、法制度、そして国家が社会に実装しようとする価値がある。スポーツは社会の一部であり、同時に社会を作るエンジンでもある。だから、スポーツクラブを見ることは、その国がどのような社会を生きようとしているのかを見ることになる。日本が今、部活動の地域移行を進める中で、この問いを避けることはできない。
2026年9月1日 文・高松 平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)
スポーツクラブは特効薬ではない
ドイツには、日本のような学校部活動が基本的に存在しない。授業が終わると子供たちは帰宅し、放課後の継続的なスポーツ活動は、多くの場合、地域のスポーツクラブで行われる。ドイツには約8万6000のスポーツクラブがあり、ドイツオリンピックスポーツ連盟の2025年統計では、組織スポーツの会員登録は約2930万件に達する。人口に対して三分の一を超える規模である。ただし、これは「人数」ではなく複数登録を含む会員登録数である。
スポーツクラブは、社会の中の「同好会」、スポーツを核にしたコミュニティである。決して「習い事」ではなく、老若男女がメンバーだ。したがって余暇の場であると同時に、運動、競技、交流、学習、社会参加の場になっている。
そのメンバーは対等で、自由に意見を述べ合うコミュニケーションの形態や、自主管理の様子から「デモクラシーの学校」と呼ばれることがある。こうした情報だけを吸収すると、「スポーツクラブを増やせば、民主主義が確立する」「クラブがあれば地域社会が活性化する」と考える人も出てくる。
私の実感で言えば、10年前に比べて、スポーツの議論は変化してきている。そん中の一部の議論では「スポーツクラブがベストの組織だ」とまるで特効薬とでもいいたげな議論も見られる。それは明らかに短絡的である。
重要なのは、スポーツクラブが成立し、継続し、社会的な意味を持つ条件である。スポーツクラブから見出せる「良さそうなこと」はクラブから自然に流れ出てくるものではない。制度は、制度を支える社会があって初めて動く。さらに踏み込んで言えば国家デザインを反映したものだ。
ドイツの「国家デザイン」
ここでいう国家デザインは、政府が公式に掲げるスローガンや政策ではない。憲法、法律、制度、行政、教育、経済、地域社会、公共圏※が、どのように結びつき、どのような社会を再生産しているかを捉えるための概念である。
※公共圏=相互敬意のもと自由な意見表明の空間(ただし摩擦は生じる。しかし安全ではある)
ドイツの国家デザインは、1949年の憲法に相当する「基本法」を中心に、人間の尊厳、平等、基本権、社会国家原理を組み合わせることで、社会的連帯の方向性が際立ってくる。人間の尊厳は不可侵であり、国家はそれを尊重し、保護する義務を負う。国家権力は分散され、公開され、批判される。権利を侵害された市民は、裁判所に救済を求めることができる。
直感的に言えば、ドイツの国家デザインとは、人間の尊厳を、社会で実際に機能させることである。これが「国家はどのような社会を作ろうとしているのか」の部分だが、これだけでは足りない。「国家は誤り得る。そのとき、誰が国家を止め、批判し、修正するのか」という問いまで含んでいる。しかも現在の市民だけでなく、次世代が尊厳をもって生きられる条件を維持する責任も含んでいる。ここに国家として「どう勝つか(生存戦略)」のみならず、「どう生きるか(存在戦略)」も含まれている。

国家デザインとスポーツ
この構造の中で、スポーツクラブは国家デザインの一種の「翻訳」である。
だから、性別・年齢・国籍・所得などに関わらず「参加の可能性が開かれている」。メンバーは原則として対等な権利を持ち、総会や選挙、討議などを通じてクラブを自主管理する。実際、ちょっとした合間の対話を見ても、対等な関係に基づいている。参加・脱退も自由で、制度的にはリーダーの交代がある。そして、「健康・教育・包摂・地域活動」につながる。これらは人間の尊厳・自由・平等・社会的連帯・共通善※といった国家デザインに見られる価値観が極めて具体的に翻訳された結果である。
※共通善=人間の尊厳を基本とした社会全体の利益の調和。経済は目的ではなく手段であり、環境・財政・社会制度の持続可能性を指す。SDGsは、国連による共通善の国際的定式化と言える。
同時に、クラブでの経験を通じて、それらの価値を担う市民が育ち、次の世代へと受け渡される。クラブは国家デザインの産物であると同時に、その再生産に関わる装置でもある。ただし、ここでいう再生産は、国家が市民を一方的に製造するという意味ではない。スポーツクラブは自律的な市民社会の組織であり、国家から距離を取りながら、国家の価値を解釈し、場合によっては批判し、更新する。国家と市民社会の間にあるこの往復運動こそが重要である。
ドイツでも独裁国家の時代は、スポーツマンを「体力と規律のある兵士」のモデルとして見られた。
今日でも国際的なスポーツ大会で、敗北した場合、選手や監督を処罰するような国もある。これは国家がスポーツを国家目標の道具として位置づけているからと推測できる。したがって敗北は単なる競技結果ではなくなる。国家への失敗や背信として解釈されるわけだ。そして、日日本でときに見られる「銀メダルは失敗」という反応も、程度の差はあれ、その構造を思わせる。
これは、国家デザインが「どう生きるか」というよりも、「どう勝つか」が中心になっているからだろう。
日本の問題
日本の部活動地域移行は、制度設計の面ではかなり進んでいる。神戸市の「コベカツ」のように、移行期、財政、指導者、安全、スポーツと文化活動の多様性を考慮した仕組みも現れている。これは、過去十年ほどの議論や各地の試行錯誤が反映された制度的な到達点といえる。
しかし、制度を作れば欧州型スポーツクラブが成立するわけではない。制度を移植しただけでは、社会の中で制度を支える時間、信頼、価値観、参加の文化まで移植されない。日本の議論は、教員の長時間労働という学校側の事情から始まった。そこには切実な問題がある。しかし、議論が「どうすれば教師の負担を減らせるか」に限定されるなら、スポーツクラブは学校の業務を外部化する受け皿ということになる。
同時に、この議論はスポーツの再解釈や、地域のスポーツクラブの必要性が、「社会」から出てきたわけではない。そのため、ドイツから見ていると、部活の地域展開という議論はかなり射程が狭い。「なぜ教師の働き方が地域スポーツの再編と関係するのか」というふうに見えるのだ。
そして、実際、「部活の地域展開」という動きそのものも、それほど多くの人が知っているようには思えない。これは当然の帰結である。社会全体で「スポーツを通じて、どのような社会を作りたいのか」という問いまで、まだ十分に共有されているとは言い難い。
キツい言い方をすれば、日本でスポーツクラブを作ることが無意味なのではない。ドイツのスポーツクラブという「形」だけを移植することが無意味なのだ。制度だけを取り出して移植すれば、「劣化コピー」で終わる可能性が高い。国家デザインが異なるからである。
ドイツから導入すると良いものが一つだけある
一方、悲観だけで終わる必要もない。この十年を見るだけでも、「学校の事情」から始まった議論は、少しずつ変化している。制度設計は、過去の失敗や議論を吸収している。対話の場も増えているし、何よりも「対話の構え」が少しずつできてきている。むしろ、これがここ10年の成果と言えるかもしれない。
「スポーツ」というお題から、公共圏を生成し、スポーツを通した理想の社会を想定し、実践する。すると日本の国家デザインそのものを変える力になる可能性はある。ただ、制度論偏重という印象は強い。これだけでは足りない。
最後にこんなエピソードを一つ。
ある講演で「ドイツの何を日本に導入すればいいですか?」という質問を受けたことがある。私はこう答えた。「『スポーツとは何か』、というレベルから考える態度です」。(了)
ドイツの地方都市におけるスポーツとは何か?(共著も含む)

執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。プロフィール詳細はこちら



