
寄付という行為は、単なる金銭の移動ではない。それは、人と人との関係を形成し、共同体への帰属意識を確認し、社会を支える信頼を再生産する営みでもある。 ドイツのスポーツクラブで見られる寄付の文化は、そのことをよく示している。本稿では、エアランゲン市およびその周辺地域の具体的な事例を手がかりに、寄付が共同体の維持に果たす役割を考察する。その際、歴史人類学や法制史の知見も参照しながら、「贈与が関係性を生み出す」という視点から、その構造を読み解いてみたい。さらに、寄付が制度化されることで自発性を失い、本来とは異なる性格を帯びる危険性についても検討する。
2026年7月14日 文・高松 平藏 (ドイツ在住ジャーナリスト)
1. 祭りでスポーツクラブのメンバーが働くのはなぜ?
ドイツでも地区や村ごとに祭りが開かれる。多くは教会や地域共同体の伝統と結びついた行事であり、バイエルン州ではビールを提供することから、外国人には「ビール祭り」のようにも映る。しかし、その本質は酒ではなく、地域共同体の交流と結び付きにある。
新聞報道によれば、ヘルツォーゲンアウラッハ市(バイエルン州、人口約2万4千人)の夏祭りでは、スポーツクラブのメンバーがビールや食事を提供する売店の運営を手伝い、その収益がクラブ活動を支える重要な財源となっている。
ここで興味深いのは、参加者が単に「アルバイト」として働いているわけではない点である。クラブの会員や家族、OB・OG、友人らがそれぞれ役割を担い、祭りの運営そのものが共同作業として成り立っている。そして、その成果がクラブへ還元されることで、スポーツ活動や青少年育成が支えられている。
同様のケースは、筆者が住むエアランゲン市(人口約12万人)のスポーツクラブでも見られた。同クラブの柔道部署は1969年の設立当初、慢性的な資金不足に直面していた。創設メンバーの一人によると、メンバーたちは知り合いのレストランでウェイターとして働き、その売上の1%を柔道部署へ寄付することで活動資金を確保した。
二つの事例に共通しているのは、「労働を提供し、その成果を共同体へ還元する」という実践である。そこでは金銭だけが移動しているのではない。メンバーはクラブへの帰属を具体的な行動として示し、クラブはその支えによって活動を継続する。寄付は、資金調達の手段であると同時に、「私たちは同じ共同体の一員である」という関係を確認する行為でもある。
日本社会から見ると、このような仕組みはあまり馴染みがないかもしれない。「期間限定のアルバイト」と理解されることもあるだろうし、副業規制との関係が議論になる可能性もある。 もっとも、ドイツでは職業選択の自由が重視され、本業の利益を侵害しない限り、副業そのものを広く禁止することには慎重な考え方が一般的である。
しかし、本稿で注目したいのは、副業制度の違いではない。むしろ重要なのは、こうした労働と寄付が、人と人との関係をどのように生み出し、共同体を支えているのかという点である。その構造を理解するため、次章では歴史的な視点から「贈与」と「関係性」について考えてみたい。
2. 寄付の正体:「贈与」と「関係性」の構造
前章で見た事例では、人々は単に労働力を提供し、その対価の一部をクラブへ寄付しているだけではない。その行為を通じて、「自分はこの共同体の一員である」という帰属を確認し、他のメンバーとの関係を維持・再生産している。寄付とは、金銭の移動であると同時に、人と人との関係を形成する社会的な実践でもある。
この点は、歴史家・阿部謹也が中世ヨーロッパ社会を分析する際に示した、贈与や恩義が人間関係を形成するという視点とも重なる。贈与は単なる物の授受ではない。それは相手との関係を成立させ、その関係を持続させる契機となる。したがって、贈与の意味は金額や物品そのものではなく、その背後で形成される社会的関係にある。
この構造を対比的に照らす歴史的な例として、ヨーロッパ法制史のプレカリウム契約(Precarium)を一つだけ挙げておきたい。プレカリウムは、ローマ法に由来する制度で、土地所有者が自分の土地などを他者に利用させる仕組みであった。中世ヨーロッパでは、教会や有力者に土地を寄進した後、再びその土地の利用を認めてもらうという形でも広く用いられた。もちろん、これは現代のスポーツクラブのような対等な関係とはまったく異なる。土地所有者と利用者の間には明確な力の差があった。それでも、土地利用の許可とそれに対する貢納や労働という応答が繰り返されることで、そこに一定の社会的関係と義務が生まれていった点は示唆的である。対等な市民同士の寄付と、不平等な力関係のもとでの寄進――この両極を並べてみることで、「応答の反復が関係をつくる」という構造が、力の差の有無にかかわらず人間社会に繰り返し現れることが見えてくる。
さらに言えば、この構造は近代においても形を変えて受け継がれた可能性がある。19世紀、産業革命と都市化によって伝統的な農村共同体が解体されたとき、都市は「見知らぬ他人の集まり」の空間だった。ここでできるのが「フェライン」などの同好の士が集まる組織形態。スポーツクラブもこの組織形態である。その中で、人々が関係の作り方をゼロから発明したとは考えにくい。中世以来、贈与や互酬を通じて関係を築いてきた文化的な蓄積が、フェラインという新しい器の中で再構成された可能性がある。非欧州系の外国人としての印象を付け加えると、現代のドイツ社会でも、思いのほか、キリスト教的な発想の痕跡を感じることがあるからだ。

そう考えるならば、現代のスポーツクラブで見られる寄付や労働の提供も、単なる資金調達ではなく、長い歴史の中で形を変えながら生き続けてきた「共同体への参加意思を可視化する行為」の系譜として理解することができる。メンバーが祭りやレストランで働き、その成果をクラブへ還元することによって、クラブは活動資金を得るだけではない。メンバー相互の信頼が再確認され、「このクラブは自分たちで支えるものだ」という共通認識が育まれる。
重要なのは、ここでの寄付が市場における等価交換とは異なる論理で成り立っていることである。寄付をしたからといって、寄付者に直ちに同額の利益が返ってくるわけではない。それでも人々は寄付を行う。期待されているのは経済的利益ではなく、共同体への参加や信頼、そして帰属感という社会的価値だからである。
スポーツクラブは競技を行う組織であると同時に、このような関係性を日々生み出し、維持する社会的な装置でもある。そして寄付は、その装置を支える重要な実践の一つなのである。
3. 「社会的ユーロ」のリスク:自発性の喪失と制度化の罠
しかし、寄付の文化が常に同じ形で機能するとは限らない。共同体を支える実践であっても、制度化される過程で自発性との間に緊張が生じることがある。バイエルン州サッカー協会(BFV)が導入した「社会的ユーロ(Sozial-Euro)」は、その典型例である。
「社会的ユーロ」は、試合の入場時に観客が1ユーロを追加で支払う仕組みで、その資金は社会的支援や国際協力に充てられている。スポーツが社会的課題に関与する試みとして、その意義は明らかだ。
しかし現場では、別の側面も見えてくる。報道によれば、ある試合会場で入場担当者が「審判も支払っているのだから」と説明し、支払いを促す場面があった。だが協会は、これはあくまで任意であり義務ではないと明言している。
ここに制度化の難しさがある。形式上は自発的な寄付であっても、運用の中で「支払うのが当然」という空気が生まれれば、それはもはや純粋な自発性とは言いがたい。
第2章で見たスポーツクラブの事例では、寄付は当事者自身による関与の表現であり、関係の内部から生じていた。これに対し、制度化された寄付では、支援する側と受け取る側の関係があらかじめ枠づけられ、「参加」が半ば外部から要請される形をとるわけだ。
もちろん、現代社会において制度的な支援は不可欠である。しかし、寄付が「自ら関わる行為」ではなく「求められる負担」として経験されるとき、それは共同体を内側から支える関係形成の契機ではなくなる。
重要なのは金額ではない。寄付する人が、その行為を通じて自らを共同体の一部として位置づけられるかどうかである。スポーツにおける寄付文化を考えるうえで問われるべきなのは、「どれだけ集まるか」ではなく、「どのような関係の中でそれが行われているのか」という点なのだ。
4. スポーツは社会を支える装置になり得るか?
ドイツのスポーツクラブに見られる寄付の文化は、単なる資金調達の仕組みではない。それは、人々が共同体との関係を確認し、社会的なつながりを再生産する実践である。
祭りでクラブのメンバーが働く。レストランで得た収益の一部をクラブへ還元する。こうした一見ささやかな行為の中で、「自分たちの活動は自分たちで支える」という当事者意識が形づくられている。
スポーツクラブは競技の場であると同時に、異なる背景を持つ人々が関係を取り結ぶ場でもある。寄付やボランティアは、その関係への参加を可視化する行為にほかならない。
しかし第3章で見たように、その営みが制度として固定化されるとき、参加はしばしば「求められるもの」へと変質する。そこでは、関係の内側から生まれていたはずの行為が、外部から要請される負担になる可能性がある。
したがって、スポーツが社会を支える力を持ち続けるために重要なのは、制度の有無そのものではない。人々がその行為を通じて「自分もその一部である」と感じられる関係の構造が維持されているかどうかである。
社会を支えるのは、大規模な制度や資金だけではない。地域の祭りで汗を流すこと、クラブの活動を支えること、仲間に関わり続けること。そうした実践の積み重ねが、人々のあいだに信頼を生み出していく。
スポーツは社会を作るエンジンである。その背景を細やかに見ていくと、スポーツそのものがエンジンというわけではない。スポーツを通じて、人々がどのような関係を築くのか。そこに、社会を支える力が宿っている。(了)
参考文献
阿部謹也『「世間」とは何か』講談社〈講談社現代新書〉1995年。
Erlanger Nachrichten, „Zusammenhalt unter Volldampf“, 10. Juli 2026.
Erlanger Nachrichten, „Gute Sache, die ich nicht teile“, 10. Juli 2026.
„Prekarium und Benefzium“, Blog Tribur, 17. April https://www.tribur.de/blog/2025/04/17/prekarium-und-benefzium/.
Wikipedia, „Prekariumsvertrag“, https://de.wikipedia.org/wiki/Prekariumsvertrag.
著書紹介(詳しくはこちら)
都市社会の民主主義についてのヒント

執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。プロフィール詳細はこちら


