法治国家の父権的「共生」

新たに設けられた「外国人との秩序ある共生社会推進担当大臣」というポストは、日本の「共生」政策を象徴している。つまり「外国人に対する法的順守の強調」である。報道※によると、このポストに就いた小野田氏は「ルール違反に厳しく対応する」と述べている。しかし、この「共生」はまるで「言うことを聞かない子供に父親が睨みを利かす」父権的態度を思わせる。
2025年11月13日 文・高松 平藏 (ドイツ在住ジャーナリスト)
父権的「共生」がにじむ日本の法治国家
法治国家とは法の下で自律した個人が対等な関係で契約し、社会を形づくる理念だ。だからこそ、法の適用は個人や集団の属性によって恣意的に変わるべきではない。外国人に限定して「秩序」や「厳格さ」を強調することは、法治の理念を「しつけ」に置き換えるように見える。
ドイツでも外国人排除の風潮がないわけではない。だがそのたびに、基本法が保障する「人間の尊厳」や「民主主義」といった原理が、理念としての歯止めとして明示的に議論される。たとえば移民統合法や亡命法制の改定では、常に人権原則との整合性が前提とされる。理念と現実の間には緊張関係があるが、その緊張こそが政治を動かす。また、呆れる言説も少なくないが、少なくとも議論は理念の次元に立ち戻ることがパターンとして維持されている。
ところが日本の「共生」は、理念や原理よりもまず「秩序ある状態」を強調する言葉になっている。どういう原理的価値観で「共生」を実現するのか、という部分が抜けている。その結果、プリミティブとも言える「国家というお父さんが指導」というイメージにつながるのではないか?強制的に共生しなさいという駄洒落のような構造だ。まさに「父権的共生」とでも言える。
このことは、実は「参政党」という政党名を初めて見たときの違和感にも通じる。同党の政策や党首の言動にとやかくいうつもりはないが、政治参加は民主主義の大前提であり、「参政」自体を特別に掲げることがむしろ未熟な民主主義国家の一面を表しているように思えたのだ。
必要なのは健全な「自由」の伴った共生
ひるがえって、私は法学の専門家ではないが、「ルール違反の外国人には厳しく対応する」という方針は、法治国家の境界を逸脱しかねないように思う。専門家の中ではどのような議論が行われているのだろうか?法的に保障されるべきは「秩序」ではなく、社会を支える健全な「自由」であるべきだと思う。
この「自由」とは、最大限の個人の自由を追求しつつも、他者の自由や尊厳を害さず、平等な自由の機会を誰もが享受できること、さらに病気・貧困で「自由」の機会が著しく限定されてしまう人(いわゆる社会的弱者)に対して、大勢の自由意志で手助けで、できる限り自由を享受できるようにする(連帯)。これがより、高次の健全な「自由」である。(了)
2025年10月24日 Facebookページに投稿したものに加筆修正
※日経新聞 2025年10月23日「ルール守らない外国人に厳格対応」 小野田紀美氏、制度見直し強調
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執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。プロフィール詳細はこちら


