ドイツの中世都市では、犬はしばしば蔑称の比喩として使われた。しかし21世紀の今日、そうした表現はほとんど耳にしない。なぜ犬は悪態の象徴から外れたのか。その理由を考えてみよう。本稿は「『犬野郎め!』という悪口がドイツ中世都市で叫ばれた理由」の続編である。


蔑称の対象と現代のドイツ社会


中世都市で「犬野郎」「ぼろ犬」などの蔑称は、都市に流入した下層の新住民に向けられた。一定の地位を持つ職人らが、のし上がる新参者への不安や階層的優位を守る意識から放った言葉だったと考えられる。
なぜ「犬」だったのか。それは犬が人間の身近な存在であると同時に、当時は野良犬の増加が社会問題となっていたためだ。犬は近しくも厄介な存在として、負のイメージを背負っていた。

世界的に見ても犬の蔑称は大きく5つのパターンに集約される。不浄・賤民・異端、宗教的・道徳的差別、普遍的な差別の道具、都市秩序や社会階層の象徴、そして社会的境界を侵犯する者の象徴である。

この枠組みを中世ドイツ都市に当てはめ、現代社会に置き換えると、対象は移民や難民といった存在になるだろう。だが実際には、現代ドイツで「犬」を悪態に使うことはほとんどない。それは犬が「伴侶動物」としての地位を確立したためだ。とりわけ、筆者の飼い犬「スポック」(冒頭写真)はユーラシアという交配種だが、そもそも「都市家族の伴侶」として育成された犬であり、「悪態の象徴」とは対極にある。


法的保護と文化的変化の中での犬の蔑称の消滅


今日のドイツでは、犬は法律によって保護される存在であり、家族の一員として位置づけられている。その背景には、「人間の尊厳」という価値観が法と社会の両面で強化されたことがある。人を傷つける言葉を公然と使うこと自体が忌避される社会になったのだ。

かつては「犬」という悪口が日常的に「使えた」社会だったが、今ではそうした発言が問題視される。

言い換えれば、現代ドイツは「文明的で上品な社会」になったとも言える。しかも悪態への感度は日本よりも高い印象を受ける。地方紙には「35歳の男性が、40歳の男性を侮辱した」といったニュースが掲載されることもあるからだ。「大阪のおばちゃん」のように比喩を交えた口喧嘩を楽しむ文化は、少なくともドイツでは許容されにくい。(もっとも、今の日本にその文化が健在かどうかは筆者にはわからない。)


犬の比喩は完全に消えたのか


もっとも、例外はある。2018年にはベルリンで移民に犬をけしかける事件が起きた。またイラク戦争期の2003年ごろ、アメリカ軍がイラク人捕虜を「犬のように扱う」行為を行った。
犬という存在が象徴する意味は、社会構造や権力関係によって変化し、時に再び蔑称や差別の手段として用いられることもある。

犬が象徴する意味は社会構造や権力関係によって変わることがあり、時には蔑称や差別の表現として再び用いられることもあるということだ。

ところで、英語圏の映画には「ビッチ(Bitch)」のような表現が頻繁に登場する。元は雌犬を意味するが、アメリカの日常生活で、実際どのぐらいの頻度でどのように使われているのだろうか?

日本では古くは密偵などを「警察の犬め!」となどと言う一方、「犬のおまわりさん」という親しみの象徴もある。犬は世界的にも、そして歴史的にも、人間に最も近い動物であるがゆえに、その時代の社会構造や権力関係を映し出す複雑な存在なのだ。(了)

参考文献:
Cohn, Hugo. Tiernamen als Schimpfwörter. Berlin: Weidmann, 1910.


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執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。プロフィール詳細はこちら