ルクセンブルクの中央駅(写真)には第二次世界大戦のモニュメントがあった。

ヨーロッパの都市を訪ねると、第一次世界大戦を記念するモニュメントに出会うことが多い。だが仏独ベルギーに囲まれた小国ルクセンブルク大公国の首都を歩くと、目に入るのは第二次世界大戦の碑が圧倒的に多い。なぜここまで第二次世界大戦の記憶が色濃いのか。その理由は、19世紀の中立宣言と、その破られ方にある。


中央駅に埋め込まれた「記憶」


第二次世界大戦中に犠牲になった駅員のモニュメント(2025年8月6日 筆者撮影)

ルクセンブルク市の中央駅に入ると、第二次世界大戦中に犠牲になった駅員のモニュメントが目に入った。それだけではなく壁には、3,614人の女性がナチスによってこの駅からドイツへ送られたこと、658人のユダヤ人が強制収容所へ移送されたことを刻むプレートが並ぶ。

街路には「自由の道(Voie de la Liberté)」の標柱が点在し、連合軍による解放の足跡をたどらせる。

欧州にとって、第一次世界大戦は最初の「ナショナリズムの高揚とその犠牲の多さ」という点から、日本社会からはわかりにくい大きなインパクトがあった戦争だ。だから第一次世界大戦にまつわる碑が多い。

だがルクセンブルクは第二次世界の碑が圧倒的に多い。駅以外にも500程度あるらしい。


中立国という「貧乏くじ」


街の中には「自由の道(Voie de la Liberté)」の標柱が点在する(2025年8月6日 筆者撮影)

その理由は19世紀に遡る。
1867年、ルクセンブルクはロンドン会議で英・仏・プロイセン・露の四大国から「中立国」を宣言された。それは、自発的な選択というより列強同士の勢力均衡の取引の結果だった。普仏戦争の火種を避けるため、強固な要塞を抱くこの小国を非武装化し、中立として凍結するということが、「地図上」で決まった。

だが1914年の第一次世界大戦ではドイツ軍が侵入し、占領下に置かれる。それでも被害は限定的で、戦後は中立国としての看板を保った。

しかし第二次世界大戦では、情勢はさらに厳しくなる。1940年5月10日、ドイツ軍はベルギー・オランダと同時にルクセンブルクへ侵攻。連絡を受けた他国も自ら防戦に追われ、軍事的支援は不可能だった。ルクセンブルク自身も近代的軍備をほとんど持たず、全土が占領された。「中立国」の宣言は「とんだ貧乏くじ」という感じだろう。


占領の記憶と戦後の選択


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占領下のルクセンブルクでは、行政・学校からルクセンブルク語が排除され、ドイツ語使用と徹底した「ドイツ化」が進められた。もちろん抵抗運動も存在したが、青少年の強制徴兵、女性の労働奉仕、ユダヤ人の迫害と大量国外追放は市民社会を壊滅的な状況に追いやった。

しかし戦後、この小国は大胆な方向転換を見せる。「中立国」であることをあっさり捨て、1949年にはNATO加盟。安全保障を集団防衛に委ね、経済ではベネルクスを通じ欧州統合に積極的に参加した。背景には、占領を許した中立の脆弱さを知ったこと。そして、国際協調こそが自国の安全を担保するという確信にある。

今日、ルクセンブルク大公国は約68万人の人口を擁し、その首都ルクセンブルク市は約14万人を数える。世界最高水準の一人当たりGDPを誇る金融・サービス国家となり、かつての占領国ドイツとも緊密な関係を築いている。

駅舎や街角に残された石碑は、過酷な歴史を忘れないという意思の表れだ。だが、同時に、地政学的現実と国政運営をどう結びつけて生き延びるかというタフな戦略と交渉力が、この国の中核的な力であることが読み取れる。

特にドイツとの連携のプロセスでは感情面での葛藤が相当あったはずだ。どのようなプロセスを経て現在の関係が築かれたのかを知ることは、国際社会における日本の歴史問題を未来志向で議論につなげることができるかもしれない。(了)


【参考文献】


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執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。プロフィール詳細はこちら