
静岡県富士宮市で計画されている博物館建設に対し、住民が反対の声を上げている。一方、ドイツでは文化施設は民主主義を支える公共インフラとして重視されている。両国の対照的な状況を手がかりに、日本社会における文化と民主主義の関係を検討する。
2025年5月19日 文・高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)
なぜ博物館建設に反対の声が上がるのか

静岡県富士宮市で、新たな郷土博物館の建設に反対する住民運動が広がっている。報道によると、住民グループが5000筆を超える署名を集め、市民投票の実施を市に求めたという。反対の理由は、「今、必要なのは公共施設ではなく、日々の生活に直結した課題の解決だ」とのこと。運動の発起人は「ハコモノ」、すなわち博物館のような公共施設を「不要な贅沢」と捉えている。
私は2017年に「文化学芸員は がん」という当時の山本幸三地方創生担当相の発言にも驚いたが、博物館の建設反対のニュースにも衝撃を受けた。そしてこの二つは日本の国家像にある共通の問題だと感じた。
ドイツでも財政が厳しくなると、文化の予算カットしようという話が出てくる。しかし、日本とは逆で「予算カット反対」という政治家や市民運動が必ず出てくる。コロナ禍で文化施設が閉鎖された時も、芸術関係者と市民らがデモを行った。日本と正反対なのである。これは行政の優先順位が日独で異なる、という意味ではない。ドイツの「必死の攻防」は「文化は民主主義の生命線だ」と考えられているから起こる。
文化は「装飾品」か「社会の酵母」か
文化とは、娯楽や観光資源という側面もある。しかしドイツの場合、社会の土台を支える要素として基本的に重視されている。市民が集い、自己や社会について考え、対話を通じて価値観を深める空間として、博物館や劇場、図書館は不可欠な存在だ。社会という「生地」を膨らますための「酵母」なのだ。豊かに膨らんだ社会は、包摂性、安定性、ダイナミズムが同居する。
一方、日本では文化とは「余裕があるときに整備される装飾」という考え方が大きいのではないか。しかし、これも少し大きな話になるが、日本は近代化の過程を考えると当然の結果と言える。
日本の歴史を省みると、制度や外形を欧米から模倣するかたちで「近代国家」の体裁を整えてきた。だがその過程で、文化を社会の核心としてとらえる視点は、根付くことがなかった。
その点で日本は「擬態近代国家」(外形的には近代的だが、内実が伴っていない国家)である。表面的には民主主義の制度を備えていても、そこに内実がともなっていなければ、文化は最も簡単に切り捨てられてしまう。富士宮での博物館反対運動は、そうした傾向が社会に深く根付いていることを物語っている。
また戦後の日本は経済発展の「成功」によって、国のアイデンティティの一つに「経済」が大きくなる。だからこそ冒頭でも触れたように、政治家が簡単に「(学芸員が文化財の保存や修復に重点を置くあまり、ミュージアムの観光的価値を高めようとしないから)学芸員はがん」という発言するのだろう。

形だけの民主主義が文化を弱くする
日本国憲法は、戦後の占領下で制定され、言論・表現の自由や市民の基本的権利を保障している。しかし、民主主義の制度があることと、民主主義が実際に機能していることとは別問題。制度は導入されたが、使いこなす訓練が不足してきた。市民が自ら意見形成を行い、対話と討論を通じて社会に関わる、これによって民主主義が生きたものになる。
ただ近代国家や民主主義は欧州の歴史の中で登場してきた。それだけに日本のみならず、非欧州の国々で民主主義を制度以上のものにするのは難しいのは確かだ。
しかし、その上でドイツを例に見ていく。近代以降に「理性で自己決定する私」というメンタリティを持つ自律した市民の理念が育まれてきた。いわゆる啓蒙思想である。文化活動はそうした市民の形成に寄与し、社会的な結束を生み出す役割を担っている。文化は、社会の課題や対立を可視化し、言語化し、乗り越えていくプロセスの舞台でもある。
それに対して日本社会の人々のメンタリティは「理性で自己決定する私」とは対照的だ。たとえば、それは“空気を読む”という文化などに代表される、集団の調和を優先される集団自我とでもいうメンタリティが強い。戦後の経済的成功は、この集団性が奏功した形だ。
だが、このメンタリティは異論を表明することへの抵抗感が根強く、公共の議論の場は限られ、「空気」で決まっていく。そのため、文化施設が社会の変革を促す「対話の場」として機能する意義が、十分に共有されていないと説明できる。また日本社会では政治的メッセージの強い芸術に対する嫌悪感も強いが、これも当然の結果だろう。
民主主義を支える「文化の力」を問い直す機会だ
集団自我とでもいうメンタリティを元にしたモデルは経済の繁栄を引き出した。その後は産業構造やグローバル化、地政学などさまざまな要因が変化。かつてのモデルは機能しなくなっている。
この現状に対して、日本は擬態近代国家から抜け出して、民主主義を実装する局面にあるのではないか。社会そのものに包摂性・安定性・ダイナミズムをもたらすやり方に切り替えるべき時期だ。民主主義とはそのための仕組みで、選挙などの制度のみを指すのではない。多様な立場の人々が対話を重ねながら、社会のあり方を模索していく過程そのものである。文化施設は、その土壌を提供する空間だ。ミュージアム(博物館・美術館)は展示を通じて過去を振り返り、他者の視点に触れ、自らの立場を問い直すことができる。こうした経験の積み重ねが、市民の成熟を促す。
言い換えれば、博物館は「ものを保管するハコ」ではなく、社会が自己認識を深めるための装置だ。そのように考えると、富士宮での反対運動は日本社会がいかに民主主義と文化を結びつけてこなかったの表れだ。また反対運動は、「予算的に優先すべき社会の問題」を根拠にしているが、これらの問題を民主的に解決していくための土台部分が文化ということになる。
日本の文化政策の議論はこの30年でかなり展開があった。地方を見ると文化に関する活発な人物は多数いるのだが、「政策」としては感覚的な言い方をすると「弱々しく存在感がない」状態が続いているように私は感じている。それは日本が「擬態近代国家」で民主主義を生きたものにすべきという課題と結びついていないためだ。この観点から言えば文化の役割を「贅沢品」ではなく「公共のインフラ」として再定義する必要がある。(了)
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ドイツの地方都市での文化と市民、文化政策がどんなふうに都市の質を高めているか?

執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。プロフィール詳細はこちら