1970年代、日本の地方の小学校で一度だけ受けた作文授業はすごかった。

昨日、オンラインでの意見交換の機会があり、「言語化能力」が話題になった。要するに、言語化能力を底上げしないと、社会は回らない――という方向の話だ。

「言語能力」でいつも思い出すのが、私が小学校2年生のときの作文の授業(1977年)。地方の小学校に突然スーツ姿の男性が現れ、担任から「作文が上手になる授業」と説明されたと記憶している。彼はまず3〜5個の「書きたいこと」を書き出し、そこから1つに絞り込ませた。今振り返ると、これはかなり高度な執筆前のプロセスだ。

その後、学校で「作文の書き方」を教わった記憶はほとんどない。指導と言えば「思ったことを書きましょう」だけで、具体的な技術は体系化されていなかったと思う。

一方で、私の理解の範囲で言えば、ドイツの教育現場の作文指導は、「事実や資料に基づいた執筆」が中心的。いわば<情報収集→意見形成→公開→批判・再解釈>という 「プロセス」の一環で作文が指導されている。もう少し射程を広げると、公共知※をつくる最小単位の訓練だ。つまり、民主主義的な対話を可能にする思考訓練でもある。

※個人的な知識とは異なり、誰もがアクセスでき、共有可能な客観的な知識。公的な議論や集団的意思決定、社会プロセスの基盤となる知の集合体。

ひるがえって、日本の学校教育も戦後は民主主義をベースになっているが、1970年代に「さらに民主主義を進めるべき」という議論が一部であったと聞く。小学生の時のスーツの男性は、もしかすると「民主主義と教育を接続する」流れの中で、子供の能力開発に関わった人だったのかもしれない。部活動もまた、同じ時期に民主主義との接続が議論されたという話を聞く。

ただし、こうした議論は現場には深く浸透しなかったのではないか。
結果として、日本の教育は「言語化の技術」よりも「指示に従う能力」を育てる方向に寄ったのだと思う。私が言うところの、前近代的価値観をより洗練化させる方向である(再帰的前近代化モデル)。

言語化能力は、個人のスキルではない。組織はもちろん、社会にも自律的に参加し、他者と価値を創造する基盤的な能力だ。(了)


参考:
『再帰的前近代化』が経済大国を生み出した
ドイツで人々は絶えず民主主義的な議論をしているわけではない――しかし、重要なのは「議論を生む見えない仕組み」である
なぜ今、日本に公共知の拡大が必要か ― ドイツ的視点を手がかりに


著書紹介(詳しくはこちら
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執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。プロフィール詳細はこちら