なぜ今、日本に公共知の拡大が必要か ― ドイツ的視点を手がかりに <下>

社会全体の公共知を高めるためには、問いの質を制度や国家レベルで考える必要がある。近代国家の概念と現代日本の課題を手がかりに、21世紀に求められる公共的思考を提示する。3回シリーズの最後。
2025年12月3日 文・高松 平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)
3回シリーズ なぜ今、日本に公共知の拡大が必要か ― ドイツ的視点を手がかりに
上・「問い」と「議論」には深い関係がある
中・思考の射程と、日本社会の弱点
下・個人や組織のレベルを超えた「問いの質」という課題(これを今あなたは読んでいます)
前回の思考の射程と、日本社会の弱点で述べたように、日本では個人や組織の思考法には一定の強みがある。しかし、社会全体の公共知を高める射程、すなわち「啓蒙思想的永久思考」※の力は十分とは言えない。21世紀に入り、個人や組織の内面を整えるだけでは社会的判断が追いつかなくなるなか、公共知※※の拡大は避けて通れない課題になっている。
※啓蒙思想的永久思考 社会の前提や価値をいったん外側から捉え直し、「なぜか」を考え続ける思考(高松による整理)。批判と再解釈を通じて公共知や議論の質を高める基礎となる。重要なのは「批判」とは否定ではなく、情報や意見の妥当性を体系的に検証し、より正確に理解するための手段であること。
※※公共知 個人的な知識とは異なり、誰もがアクセスでき、共有可能な客観的な知識。公的な議論や集団的意思決定、社会プロセスの基盤となる知の集合体。
おそらく日本社会はこの問題について、直感的に気づいている。それは「自分ごととして考える」という言い方から読み取れる。社会全体を自分の問題として引きつけることで、思考の射程を広げようとしている。そのような解釈ができるのではないか。
それにしても、この「公共知の射程」を制度的に位置づけるためには、そもそも社会をどのような単位として扱うのかが問題になる。ここで、社会科学でいう「近代国家」という枠組みが手がかりになる。
ここでいう近代国家とは、理性と批判を通じて形成される「人間の集団(市民)」に加えて、「テリトリー(領土)」と「合法的で正当性のある公共権力(政府)」の組み合わせとして理解できる※。
※参照:Max Weber, 1922
この枠組みは、個人や組織の思考を社会全体の公共知に拡張するための射程を考える手がかりになる。日本は形式上(領土・政府)の近代国家でありつつも、その実態はしばしば「擬態近代国家」と呼べる状況にある。過去の文化的・歴史的文脈を踏まえれば致し方ない面もあるが、公共知の射程を高める努力は今後ますます重要になる。
公共性を支える思考の「体積」を増やすべきだ
社会の基盤を形作るのは議論の質であり、その議論の質を決めるのは「問いの質」だ。問いが浅ければ、社会の輪郭は薄く痩せ、問いが深ければ、社会は厚みと立体感を持つ。感覚的には、これは公共性を支える思考の「体積」と言える。加えてAIが標準的な道具となる21世紀において、問いの質はさらに重要になる。AIは問いに応答する存在だからだ。問いが浅ければアウトプットも浅くなるが、問いが深ければ、思考の射程も広がり、公共的な議論や知の深化につながる。
そこで日本社会では、個人や組織のレベルを超えた「問いの質」を、社会全体の公共知の次元で扱う視点が欠かせない。
だが一方で「知の作法」においては、「わかりやすさ」を過度に追求する傾向がこの30年ほど続いている。この種の知には「気付き/学び」があるとよく表現されるが、表層的であることが多く、公共知を高める議論にはつながりにくい。「自分ごととして考える」と射程を広げようとしている動きと連動していないように思える。
こうした乖離が続くかぎり、社会全体の思考の体積は増えず、判断力も細りやすい。だからこそ、現代日本における公共知の拡大こそが、社会の複雑性に立ち向かうための核心であり、必須条件となる。(了)
著書紹介(詳しくはこちら)
都市社会の民主主義についてのヒント

執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。プロフィール詳細はこちら



