コロナ危機、試合中止は問題か?
長電話対談
有山篤利(追手門学院大学 教授)
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高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)
オリンピック、勝利至上主義、コロナ危機での試合中止。日本にはスポーツにまつわる解決すべき問題や、取り組むべき課題がたくさんある。武道研究をベースにした体育科教育とスポーツ社会学が専門の有山篤利さんと対談を行った。第2回目はコロナ危機で出てきた日本のスポーツの問題と、武道の発想についてすすめる。(対談日2020年5月4日)
4回シリーズ 長電話対談 有山篤利×高松平藏
■オリンピックの代わりに何を考えるべきか?■
第1回 五輪の価値とは何か?
→第2回 コロナ危機、試合中止は問題か?
第3回 「托卵モデル」という日本の構造
第4回 「相手任せ」になる日本の理由(最終回)
コロナと日本のスポーツ
高松:コロナ禍によって、世界中のいろいろな問題や矛盾が浮き彫りになった。スポーツもそう。オリンピックも含め、試合ができなくなったことで様々な波紋があります。
有山:インターハイや全国中学校体育大会も同じ。試合がなくなって大騒ぎしている方が多い。しかし競技する場、それを見て楽しむ機会がなくなっただけ。つまり、日本のスポーツとは「試合だけ」だったことが露呈しました。
高松:勝ち負けはスポーツの要素。しかし試合だけがスポーツではないはずです。
有山:これからのスポーツを日本はどう作っていくべきか。こういう問が今回よりはっきりしました。
有山篤利(ありやまあつとし)
追手門学院大学社会学部教授。京都府下の高校で保健体育教諭として13年勤務の後、大学の教壇へ。教諭時代は柔道部の監督としても活躍した。研究者としては、柔道を伝統的な運動文化として捉え、武道授業のあり方、生涯スポーツとしての柔道というテーマに取り組んでいる。1960年生まれ。
試合がなくて慌てる武道家は武道家ではない
高松:柔道をベースに武道研究されていますね。武道の面白いところとは?
有山:今日、バーチャルなものが大きくなり、それをさらに発展させようとしている。しかしそのためには、しっかりとしたアナログが大切。光と影のようなものです。その対比をしたときに、後者はスポーツの根っこになってくると考えています。その点で武道が面白い。
高松:なるほど。古くて新しい。
有山:そういうことです。ただし、武道というと柔道を思いうかべる人が多いが、柔道は特異。「勝ち負けが目的になる」という他と比べて異質な武道。柔道は、日本の武道のスタンダードにはならない。
高松:確かに合気道などは試合がない。
有山:武道の源流としての武術が成立した戦国時代ならば勝ち負けがすべて。しかし、日本の武術が完成されたのは江戸時代。その武術では、究極的に勝ち負けはどうでもいい。心の問題を含んだ自らの「わざ」の追求が全てです。
高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリストで当サイトの主宰者。「地方都市の発展」がテーマ。著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。
最新刊は「ドイツのスポーツ都市 健康に暮らせるまちのつくり方」 (2020年3月)。スポーツに対する関心はもともと薄かったが、都市を発展させているひとつに「スポーツクラブ」があることに着目。スポーツの社会的価値を展開している様子を見て、著書につながった。1969年生まれ。プロフィール詳細はこちら。
高松:江戸時代なら剣士などもいました。
有山:例えばね、二刀流の宮本武蔵は新陰流の「わざ」で勝っても面白くない。あくまでも二刀流で勝ちたい。というか、二刀流の「わざ」でどこまでできるかがその人の武術家の視線。勝敗には徹底的にこだわるが、あくまで試合というのは自分の「わざ」が「どこまで達したか」を知るためのツール。
高松:なるほど。
有山:今回もコロナでも、本当の「武道家」ならオタオタするはずはない。自分の内面に向かって自分の「わざ」を高めるだけ。壁に向かって座禅するとか、素振りするとか、技の論理、哲学するとか高める手段はいくらでもある。むしろ昔の武術家はわざわざ、山ごもりまでして一人になった。(笑)
試合を取り上げられたくらいで慌てない。
高松:スポーツでそういう分野はあるでしょうか?
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