2026年、日本の文化行政は大きな転換点にある。文化庁の「第6期中期目標」では、国立美術館や博物館に高い自己収入目標が課され、文化は「守るもの」から「稼ぐもの」へと定義を変えつつある。しかし文化の本質は経済指標や観光資源に還元できるのか。ドイツ・バイエルン州エアランゲン市と、日本の古都・飛鳥で見た一枚のポスター。この対比から、日本の文化政策に欠ける「ある機能」を考察する。


ミュージアムは「現代」を問う場所である


ドイツ・バイエルン州に位置する人口約12万人の都市、エアランゲン市。この街の市営ミュージアムで先日、興味深いプログラムに参加した。「エアランゲンの力強い女性たち」と題された、コーヒーと会話を楽しむガイド付きツアーだ。

解説を担当するのは、展示の意味をわかりやすく伝えること(インタープリテーション)を専門とした博士号をもつ学芸員である。ここで語られるのは「昔の偉い女性の苦労話」ではない。「自由」や「平等」といった民主主義の根幹をなす価値観の観点から解釈される。

「人は皆同じように大事である」「権力だけが勝手に決めてはいけない」。こうした普遍的な価値観に照らしたとき、この街の女性たちは歴史の中でどのような立場に置かれ、いかにして自立を模索したのか。18世紀の公妃の葛藤から、戦後の女性校長による教育権の拡大まで、歴史の断片が現代社会の課題に直結する「文脈」として編み直されていく。

それに伴い、参加者たちの反応も興味深い。過去の話を聞いているはずの彼らから、自然と現代の女性市議会のあり方や、現在の社会課題についての議論が沸き起こる。ここでは歴史が、現代を生きる私たちが「どうありたいか」を問い直すための、生きた材料として機能しているのだ。


「内省装置」としての文化


文化政策における歴史や芸術とは、本来、社会が自分自身を客観視するための「内省装置」であるべきだ。ドイツの事例が示すのは、10万人クラスの地方都市であっても、ミュージアムが「過去を現代の価値文脈に置き換える作業」を維持しているという事実である。もちろん、ドイツにおいても入館料収入や外部資金の確保といった経営的要請はあるが、それらはあくまでこの機能を支える手段として位置づけられている。

この積み重ねが、数値やランキングでは測れない近代国家の「底力」となる。社会が「私(国や都市)とは何者なのか」を内省し、アイデンティティを更新し続けるプロセスそのものが文化なのだ。

「常設展」は都市の全史を展示。その中からテーマに関わるものを抽出し、説明がされる。「常設展」のフル活用だ。(エアランゲン市 2025年2月撮影)

さて、日本の現状はどうだろうか。先日、奈良県の飛鳥を訪れた際、あるポスターに目が留まった。そこには「日本史上、女性が最も力強く活躍した場所」と記され、推古・持統といった女帝たちの功績が称えられていた。

これは現代のジェンダー観や社会のあり方を再考するための、極めて優れた「内省の素材」になり得るはずだ。しかし読み進めると、トーンは一変する。結論は、地域活性化や観光の文脈、いわば「文化財版クールジャパン」へと回収されてしまうのだ。

せっかくの鋭い問いが、結局は「稼ぐためのストーリー」という出口に押し込められてしまう。これは単なる企画のズレではなく、日本の文化政策が抱える構造的な欠陥の現れではないか。


固定化した史観と数字


日本において、文化を「国家の内省装置」と捉える視点は極めて弱い。その結果、私たちは「これが私(日本)だ」という自己理解を、GDPや観光客数、入館料収入といった「数字」に頼らざるを得なくなっている。

国立美術館や博物館に課せられた「自己収入」の高い目標設定はその象徴だ。文化政策が経済の論理に吸収され、内省の深化よりも「世界に発信」という外向きのパフォーマンスが優先される。地方の文化の小さな取り組みでも「世界に発信」という常套句が発せられるが、これは最初から経済理論に居座った前提での言葉である。

「経済効率」「誰でも文化が享受できる公平性」「社会の自己理解」。
この三つの価値は文化政策の中で常にぶつかり合っている。しかし日本では、その「摩擦」がたいてい経済論理に飲み込まれてしまう。

他方、自らの内省を欠いたまま歴史を語ろうとすれば、今度は司馬史観や自虐史観といった固定された物語のぶつかり合いに終始する。そこには現代の価値観に照らして歴史を編み直す動的なプロセスが存在しない。

ドイツにおいても、ミュージアムの収益努力は求められる。しかしそこには明確な優先順位がある。まず「文化国家(州・自治体)が自分を理解する装置」としての役割があり、その価値を最大化する手段として経営がある。日本ではこの順序が逆転し、手段であるはずの「稼ぐこと」が目的化してしまっている。

現代を結びつけた、社会的問いがたくさん浮かぶプロジェクト。しかし、そのような内省は前提にされていない。着眼的がいいだけに、勿体無い。(2026年2月21日 奈良県明日香村で撮影)

安全な「遊び場」を確保せよ


文化とは、本来、社会が安全な場所で失敗や衝突を試行錯誤できる「遊び場」のようなものである。そこでの対話を通じて、私たちは「この都市は何を大事にしてきたのか」「これからどうありたいのか」という背骨、社会の「体幹」を鍛えていく。

しかし今の日本では、その遊び場までもが「経済競争の場」へと作り替えられようとしている。数値を目的化し、内省という手間のかかる作業を放棄した先に、一体どのような「日本」の姿が現れるのだろうか。

文化を「稼ぐ道具」として消費するのではなく、社会の自己理解を深める「投資」として捉え直すべきだ。こうした知的営為がなければ、国際ランキングなど明示的な指標でしか国を語れなくなる。

「近代国家」とは常に「私は何者なのか?」と問い続ける側面を持つ。バブル経済期に「経済大国という以外に、日本のアイデンティティは何があるのか」が露呈したのも、「私はこう生きる」という内省が欠落していたからだ。これでは「擬態近代国家(見た目だけ近代国家)」である。

成果や順位といった指標への過度な依存では、自己像を十分に定義できない。経済は大切だが、だからこそ文化という安全な「遊び場」を確保し、ここで「私たちの国(自治体)の自己像」「どんな価値観で成り立っているのか」を内省すべきなのだ。

さて、日本はこの先、「近代国家」として文化を自己理解の装置として育てるのか、それとも「擬態近代国家」のまま経済パフォーマンスに注力し続けるのか。その選択は文化政策の細部に隠れている。(了)

本稿はインターローカルジャーナル Facebookページに投稿したものを再編した
エアランゲンの市営ミュージアムについて(2026年3月11日)
飛鳥のポスターについて(2026年3月7日)
日本の文化政策について(2026年3月6日)


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執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。プロフィール詳細はこちら