
歴史の解釈や価値づけを巡る議論が、日本で時折熱くなる。これは日本は形式的には近代国家だが、憲法に掲げられた価値が社会に浸透しておらず、異なる史観が共存しているためだ。一方、西欧はこれらの価値に基づいて歴史を批判的に再解釈し続ける文化を持っている。
2025年11月4日 文・高松 平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)
歴史認識の「限定された枠組み」と価値観の内面化不足
日本の歴史認識は、「司馬史観」「自虐史観」「革命史観」あたりがよく知られているだろうか。司馬史観は作家・司馬遼太郎の歴史小説的物語であり、自虐史観は日本を自己批判的に見る視点、革命史観は強い左翼の影響を受けた視点だ。
これらの解釈は、結果的に「物語」に留まり、批判的な自己検証を促しにくい。さらに、日本国憲法には「個人の尊厳」や「自由・平等」といった言葉が並ぶが、これらの価値観が社会全体に深く内面化されているとは言い難い。このことが史観論争の大きな原因だと考えられる。
近代国家とは自己更新のための永久思考を持っている
西欧では17世紀頃から、「理性によって自分自身を決定していく」という考え方が生まれた(いわゆる啓蒙思想)。これは「多様な視点から見直し、問い直すことで、自分のあり方を絶えず更新していく(批判と再解釈)」という、理性的な自己決定の永久思考を意味する。「自由」や「平等」といった価値観は、この考え方を支える柱だ。
近代国家とは、この永久思考を発展させたものと考えることができる。史実は永久思考のための材料だ。
ドイツはこの考え方が顕著に表れる。これはナチスの歴史が背景にあるが、それにしても「集団的記憶」として歴史的建造物などが残される。また、文書を収集・整理・活用する「アーカイブ」が充実しており、法制度や公共的透明性の理念とともに重要なインフラと位置付けられている。これにより、不都合な「黒歴史」も残される。
もっとも、この永久思考にもアジアやアフリカからの視点が弱い。つまり、「理性による自己決定」という枠自体がヨーロッパの歴史的経験を前提にしており、他地域の文化的近代化とはズレを生じているからだ。それにしても「自己更新のための永久思考」は近代国家の重要な条件だ。
形式的近代国家という自覚から始めると良いのでは?
この観点は歴史の授業にも反映される。日本の学校での歴史は、史実は学ぶが、それらが体系的に解釈・評価されることは稀だ。
ドイツの場合は対照的に歴史の解釈・評価がされる。なぜなら、人間の尊厳、自由・平等、民主主義といった価値観を国家は不動のものとして規定し、一定以上のレベルで社会や人々に内面化されているからだ。これらの価値観を基準にした解釈・評価が行われる。だからドイツの歴史の授業をわかりやすく言えば「人間の尊厳」「民主主義」の発展史のような内容だ。
日本は形式的には「近代国家」だが、自己更新のための「永久思考を持っていない近代国家」とも言える。日本は政治的には「西側陣営」に属しているが、ドイツから見ると「どの程度西側なのか?」と疑問に思うことがある。その一つが「歴史と国家」の構造だ。ちなみに「西側」とは価値普遍主義・自由主義体制に属する国家群を指す。
歴史の評価や解釈は立場によって変わるが、不動の原点となる価値観がなければ、どう解釈・評価すれば良いかわからなくなる。日本はいくつかの「史観」という解釈が平行して存在しているのみだ。不動の価値観の共有がないため、ぶつかり合いが生じ、感情的な論争が過熱しやすい。この状況を自覚することから始めれば、国際的な歴史問題の議論も質が変わる可能性がある。(了)
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執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。プロフィール詳細はこちら


