ステートメント


私の都市哲学の中核となる命題は、都市を「永遠のベータ版」として捉えることである。
都市は完成するものではない。人間がそこに住み続ける限り、都市はつねに使い直され、解釈し直され、更新されるからである。

人間が哲学するのは、自分がいつか死ぬ有限な存在だからだ。人間は有限な時間のなかで、自らの経験、知識、価値判断、記憶を言葉や制度、建築や都市空間へと外部化する。人間は死ぬ。しかし、都市は世代を越えて残り、後から来る人々によって意味を変えられる。

都市そのものに意識や意志があるわけではない。それでも、人間が外部化した知は、空間、制度、組織、記憶、規範として蓄積され、再び人間の知覚や行動を方向づける。人間が都市をつくり、つくられた都市が人間をつくり変える。この再帰的な関係において、都市は主体ではないが、主体のように作用する。私はこれを「都市の主体」と呼ぶ。

都市を理解するには、建物や道路だけを見ても、地域活動や制度だけを見ても足りない。そこで私は、都市を物理層、社会層、メタ層の三つの層から見る。物理層は建築、住宅、道路、交通、インフラである。社会層は人々の活動、組織、制度、文化、日常の実践である。メタ層は、都市が自分自身をどのような都市として理解し、価値づけ、記憶し、未来を構想するための知である。

私がこの三層構造を考えた出発点には、日本とドイツの都市を見比べてきた経験がある。同じ「都市」という言葉を使っていても、都市の構造、歴史、人々の期待、公共的な議論の組み立て方は大きく異なる。日本のまちづくりの一部では、社会層の実践が豊かである一方、それを都市の制度、空間、価値、長期的な意思決定へ接続するメタ層の体系化が弱い。そのとき、活動は盛り上がっても、都市の構造そのものを変える力を持ちにくい。

私が問うのは、どのような美しい都市をつくるかだけではない。その都市には、自分自身について問い、知を公共的に蓄積し、制度や空間を書き換えていく構造があるか。誰が問いを立て、何を知識として認め、知をどのように都市の決定へ翻訳しているのか。

ここに「知の構造主権」という問題がある。都市の未来を左右するのは、情報を持っている者だけではない。何を問題とし、何を可視化し、どの知を結びつけ、どの知を制度や空間へ反映させるかを決める者である。

私は建築家でも、行政計画を立てる都市計画家でもない。都市が自らについて思考し、更新し続ける知の構造を解剖し、設計する。私は都市哲学を足場にして、都市の物理層・社会層・メタ層の関係を読み解き、その再設計の可能性を探る。

人間は有限である。だからこそ、都市は永遠のベータ版であり続ける。(了)


このステートメントを支える「都市の主体」「三層構造」「構造的中動態」「知の構造主権」について、さらに詳しく説明しています。2026年5月に提出した博士論文をもとに、都市哲学として再構成した理論的補足版です。

「都市は永遠のベータ版である」――高松平藏の都市哲学|理論的補足


1. 有限な人間が、永遠のベータ版を作る


私の都市哲学は、都市を「永遠のベータ版」として捉える思想である。

都市は、完成するものではない。人間がそこに住み続ける前提である限り、都市はつねに更新される。完成した都市というものを想定すること自体が、少し奇妙なのである。

人間が哲学するのは、自分がいつか死を迎える、有限な存在だからだ。時間の有限性を自覚するからこそ、人は生の問いを立て、自らの経験や知識、価値判断を、言葉や制度、建築や都市空間といった構造へと外部化する。人間は死ぬ。しかし、都市は残るのだ。

正確には、建物も制度も変わる。それでも、ある世代が残したものを次の世代が受け取り、意味を変えながら使い直すという時間の連続性がある。有限な人間が、有限でない時間を生み出そうとして都市をつくる。ここに都市の哲学がある。


2. 都市には主体がある、と考えると?


人々が参加し、対立や試行錯誤を重ねながら異議を唱え合う「公共圏」において、都市についての議論が行われる。その過程で形成されていくのが、都市についての暫定的な知のフレームワーク――「公共知」である。公共知は固定された真理でも、なごやかな合意でもない。次の世代が受け取り、疑い、解体し、書き換える対象である。そして、その知が再び制度や空間を再構築していく。つまり、人間が都市をつくるが、つくられた都市(知の構造)もまた、人間の思考や行動に激しく語りかけるのだ。

都市そのものに意識や意志があるわけではない。それでも、人々が外部化した知が、空間、制度、組織、記憶、規範などの構造として蓄積され、その構造が再び人間に作用する。この外部化した知としての都市を見ると、あくまでも「もどき」だが、主体であるかのように見える。これを「都市の主体」と呼ぶ。

都市は考えているわけではない。だが、あたかも都市自身が考え、学習し、更新しているかのような作用が生まれる。「都市の主体」を設定することは、都市を擬人化するためではなく、「誰が都市をつくっているのか」という問いを、個人の意志や善意だけに回収させないための概念である。


3. 都市を三層から見る


このような都市を理解するため、私は都市を物理層、社会層、メタ層の三つの層から見る。これは都市の実体を三つに分割するための分類ではなく、都市がどのように形成され、維持され、変化するのかを読み解くための分析視座である。

  • 物理層:建築、道路、住宅、交通、インフラなどの物質的基盤。
  • 社会層:人々の活動、制度、組織、関係、文化、日常の実践。
  • メタ層:都市が自分自身をどのような都市として理解し、価値づけ、歴史化し、未来を構想するための知・記憶・規範。

この三層は、相互に作用しながら都市の形と意味をつくっていく。物理的空間は人々の社会的実践を方向づけ、社会的実践は制度や文化を形成する。そして、都市が自分自身をどのような都市として理解するのかというメタ層の公共知が、再び空間や制度のあり方を書き換えていく。

私はこの三層構造を、純粋な理論的系譜から考え出したわけではない。ドイツで都市を見続けてきた経験から、同じ「都市」という言葉を使っていても、日本とドイツでは、都市の構造、歴史、人々の期待、公共的な議論の組み立て方が大きく異なるのではないか、と考えたことが出発点だった。

例えば、日本の「まちづくり」の一部では、イベント、交流、担い手づくりといった社会層の実践が豊かに展開されている。しかし、それらを都市の価値、制度、空間、長期的な意思決定へ接続するメタ層の体系化が弱い場合、活動は盛り上がっても、都市の構造そのものを変える力を持ちにくい。社会層の実践を持続的な都市の変化へとつなぐには、それを位置づけ、検証し、書き換えるためのメタな公共知が必要になる。


4. 都市は自分を書き換える


また、21世紀は都市人口が増加する「都市の時代」であり、必然的に都市の構造問題が噴出する時代でもある。そのとき、都市の機能不全を正しく診断し、処方箋を書くために、この三層構造という分析視座が真価を発揮する。

都市の違いや課題を捉えるには、建築や制度、市民活動を見るだけでは足りない。都市が自分自身をどのような都市として理解し、どのような価値を共有し、どのような未来を構想しているのか。その「メタ知の構造」まで読み解かなければならない。

したがって、私が問いたいのは「どのような美しい都市をつくるか」というデザイン論だけではない。その都市には、自分自身について問い、知を公共的に蓄積し、制度や空間を書き換えていく構造があるか。

そして、「永遠のベータ版」である都市において、誰が問いを立て、誰が知のカテゴリーを規定し、知を制度や空間の決定へと翻訳しているのか。問われているのは、都市の知識構造を誰がデザインし、誰が変更し、その結果に責任を負うのかという「知の構造主権」の所在である。

私は空間を設計する建築家でも、行政計画を立てる都市計画家でもない。都市というシステムが自ら思考し、更新し続けるための「知の構造」を解剖・デザインする者だ。その意味において私は都市哲学を足場にしている。

人間は有限である。だからこそ、都市は永遠のベータ版であり続ける。(了)


【補記1】都市を動かす二つの知と「構造的中動態」の拡張

都市の公共圏には、性質の異なる二つの知の働き方が現れる。それを担う主体を、ここでは「樹木型主体」と「つる型主体」と呼ぶ。

  • 樹木型主体:自律した軸を持ち、概念を定義し、論理的な枠組みや制度を打ち立てる知。
  • つる型主体:柔軟に場や関係性を紡ぎ、現場の文脈を読み取り、知を実践へと翻訳する知。

一方だけでは、十分な公共知は形成されにくい。「樹木型」の論理と「つる型」の実践が交差し、相互の摩擦と翻訳を通じて、新たな都市の意味が生成される。

ここでいう「構造的中動態」は、古典ギリシャ語などに由来する中動態の考え方と、それを現代の意志・自由・責任の問題へ展開した國分功一郎氏の議論を踏まえている。私は、この「能動でも受動でもない第三の態」としての中動態を、都市における主体と構造の関係へと展開する。

人間は、知識や価値、記憶や判断を、制度・道路・建物・広場・文化・技術などの形で都市の構造に組み込む。こうして形成された構造は、また人々の移動・交流・記憶・判断・行動などの仕方に影響を与える。つまり「人間が都市をつくること」と「都市が人間をつくること」は、別々に起きる二つの出来事ではない。主体(人間)と構造(都市)が、どちらが先とも言えないまま、お互いを変え続ける関係が生じる。このように互いを変化させながら、新たな意味と行為の可能性を生み出す関係を、私は「構造的中動態」と呼ぶ。

【補記2】都市のトリレンマ(T・P・S)――テクノロジー・哲学・社会の動的平衡

私が提示する「物理層・社会層・メタ層」という三層構造は、私が提唱した都市の持続可能性を読み解く「都市のトリレンマ(T・P・S)」というフレームワークと直結している。都市の営みは、常に以下の三つの極の緊張関係の上に成り立っている。

T(Technology/テクノロジー):効率性、データ、インフラ、制御、システム、予測可能性(物理層)。
P(Philosophy/哲学・メタ知):意味、価値、倫理、正当性、歴史的記憶(メタ層)。
S(Social/社会・実践):現場の暮らし、コミュニティ、日常の文脈、関係性(社会層)。

持続可能性のある都市とは、この三つの極がどこか一つに偏ることなく、互いに引っ張り合いながら「動的なバランス(平衡)」を保っている状態を指す。

しかし、現代の都市論はしばしばこの平衡を失う。たとえば、データと制御ばかりを追求する「スマートシティ論」はテクノロジー(T)に過度に傾斜し、そこに住む人間の意味や価値(P)や暮らしの文脈(S)を置き去りにしがちだ。一方で、日本の地方創生にみられる「まちづくり」は、現場の盛り上がりや人間関係といった社会(S)のみに閉じてしまい、全体を統制・検証する哲学(P)や構造的な技術・制度(T)との接続を欠いている。

21世紀のAI時代・データ駆動型社会において都市の機能不全を避けるには、テクノロジー(T)や目先の現場(S)だけに振り回されるのではなく、「この都市は何のために存在するのか」を問い直す哲学/メタ知(P)が必要になる。

重要なのは、三極を上から自在にコントロールすることではない。テクノロジー、哲学、社会という三つの極の緊張関係を調整し、媒介し、更新していく知の構造を、誰が設計し、誰が変更し、誰がその結果に責任を負うのかを問うことである。そこに、都市における「知の構造主権」の問題がある。